鈴木健.txt/場外乱闘 番外編

スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ株式会社発行)では、毎月旬なゲスト選手が語る「鈴木健.txtの場外乱闘」が連載されています。現在発売中の2025年2月号では、第126回ゲストとしてCMLL・OKUMURAが登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!

※『月刊スカパー!』(ぴあ発行)の定期購読お申込はコチラ
※鈴木健.txt氏 X:@yaroutxt facebook:facebook.com/Kensuzukitxt

OKUMURA(CMLL)x鈴木健.txt 場外乱闘 番外編

日本に帰りたいと思ったのは
1000回じゃ利かないです

OKUMURA(CMLL)

日本の選手がCMLLに来たら
一人の人間としてサポートしてあげたい

2004年5月に日本を離れてメキシコに渡り、20年以上が経ちました。

OKUMURA 20年経っても毎日コツコツ頑張っている生活は変わらないです。メキシコでは、日本の空手や柔道の道場と同じような感覚でルチャリブレの教室が溢れていて、子どもの頃から通っている環境なんですけど、メキシコに来た時はCMLLにこれほど長くいるとは思わなかったし、またいれるとも思えなかったので、本当に一日一歩進んできた結果です。これをもう一度初めからやれと言われても、絶対に無理です。

20年定着しても、日々必死なんですね。

OKUMURA そうですね。メキシコには地方に数え切れないほどの小さなプロモーションがあって、そこでやっている選手たちは何かのきっかけがないと中央まで出て来られない。だからCMLLに入り込むなんて本当に狭い入り口で、ずっと居続けるのはもっと難しい。僕の場合、帰る場所がなかったですから。それまでいったことがなかった国だったんですけど、ブラック・キャットさんの紹介でいったんです。それがなかったら、かすりもしなかった。日本から修行にいく人とはまったく違う立場だったし、ネコさんから最初に言われたのは「CMLLはオールドスクールだから、とにかく練習だけは出なさい」と。何人か先生がいてクラスに分けられるんですけど、ネコさんに「サタニコ先生の教室が一番上のクラスだからそこにいかせる」とだけ聞いていて、週3回ある練習だけは絶対に休まないでくれと言われました。こっちに来て2週間ぐらいでCMLLに取ってもらったワーキングビザが下りて試合に出られるようになって、真夜中に遠征先から帰ってきても、翌朝の練習だけは休みませんでした。そうしないと紹介していただいてこちらに来たのに試合も入らなくなりますし、ワーキングビザにしても、見ず知らずの人間のために取ったりはしないじゃないですか。それも、ネコさんの紹介があったからであって、本当に恩人です。

練習といっても、言葉もわからないですよね。

OKUMURA タクシーに乗ってアレナコリセオまで練習に向かうわけですけど、ある時タクシードライバーにアレナメヒコの方にいかれたことがありました。それにクレームをつけようとしても言葉が通じない。スペイン語ゼロの状況からスタートしましたが、練習に出続けてコツコツやれば会社は言葉が通じなくてもどういう姿勢でやっているかをちゃんと見ているからと、ネコさんに言われて。ブラック・キャットさんは僕の師匠である栗栖正伸さんとメキシコで一緒だった親友なんです。2004年3月に全日本プロレスを辞めた時、栗栖さんに退団したことを報告したんです。そこで、これからどうするんだ?と聞かれたあとに「メキシコへいけよ」って言われたんです。最初は、何を言ってんだ!?って思いました。それまでの僕はグレート・カブキさんに教わったのでまったく違うスタイルでやってきましたから。

当時、一度もいったことがなければスタイルも違うメキシコを選んだのは我々も驚いたんですが、栗栖さんの言葉だったんですね。

OKUMURA 東京プロレスに在籍していた頃、ショッケルや現・メフィストのアストロJrと何回かやっているんですけど、いい試合をしたことが一度もなかったんです。だから彼らとのカードが組まれると、スタイルが違うので試合が噛み合わなくて。ただ栗栖さんからそう言われて、一度の人生だからみんなと違うことをやろうって思ったんです。それで、とりあえず1年メキシコで頑張って、ダメだったらプロレスをすっぱり廃業しようと思っていました。そう決めてから、メキシコに詳しいマスコミの方に会ってアドバイスをいただいたんですけど、そこで「無理だよ」って言われて。

それまでのスタイルを思えば、そう言われるでしょうね。

OKUMURA でも、無理と言いながらも頑張れよと餞別に1万円いただきました。それぐらいの覚悟で海を渡ったわけですけど、練習の初日で「これは失敗した」と思いました。もう、みんなモノが違うんです。やってきたことが違うわけだから比べられないんですけど、運動神経も違うし、富士山の六合目ぐらいの高地なので息をするだけでも日本と違う感覚で。でも続けているとCMLLの選手たちが「頑張っているな!」って声をかけてくれるようになって。日本から来て、短期間で戻る選手への対応と、ずっといる人間に対する態度って、やっぱり違うんですね。どういうことかというと、僕が1人入ることで、誰かの居場所がなくなるわけで、それが面白くない。

こいつに食い扶持を奪われるんじゃないかということですね。

OKUMURA そうですね。だから普段の接し方もだんだん当たりが強くなってくる。それを変えるにはまず言葉を覚え、練習態度で示すしかない。火水木は午前11時から昼1時過ぎまでアレナコリセオで練習して、そこからアレナメヒコに移動してウェートトレーニングや走ったりして、終わるのが午後4時ぐらい。当時火曜日は夜7時半からアレナコリセオで試合があったので、クタクタだけどいったん家に戻ってシャワーだけ浴びてまたコリセオまでいくんです。当時水曜日はアカプルコで定期戦をやっていたので、朝7時に出発して昼1時ぐらいに着いたらジムにいって、夜の9時から試合をやって終わったら深夜0時ぐらいに出発して朝7時に帰って来るんですけど、それでも11時からのサタニコ先生のクラスを休まなかった。こっちでは地方へいっても現地に泊まらず夜行バスで帰る場合が多いので。でもそういうサーキットに入れるのは限られた選手なんですよ。メキシコは団体に所属していても試合がなければギャラは出ないですから。そういう競争社会だから団体として91年も続いているんですよね。そこに関しては若手もベテラン選手も同じなので、当たり前のように朝からアレナメヒコのジムでアトランティスやブルー・パンテルが走ってウェートをやっているんです。決まったサイクルをみんなが全うしている。そういう世界だから、週明けに通知されるスケジュールを見る時はドキドキですよね。そこに自分の名前がないと悩みます。でも、パフォーマンスによって納得させるしかない。あの日本では考えられないようなお客さんの熱狂ぶりを味わったら、ずっとこのステージでやりたいと思って、2年目のビザ更新時もネコさんにどうするか聞かれて続けたいと言ったら、会社に言っていただいて。でも3年目の時、ネコさんはもういらっしゃらなかったので(2006年1月28日没)、自分でなんとかするしかなかった。その後2008年に右の鎖肩を骨折したんです。プレートと金属ネジ7本を入れたんですけど、金属が身体に合わなくて、再手術を受けて今度は腰骨の軟骨を移植して5ヵ月ぐらいで復帰して。それからもケガは数え切れないぐらいしましたが、いつも会社が面倒を見てくれて。今は永住権を持っていますけど、僕が来た2004年から2009年ぐらいまでにいた外国人選手はみんないなくなったんです。ずっと居続けた人間は僕だけでした。会社はそういうところも見てくれたんだと思うんです。だから僕は会社に恩返しをしたいと思うようになって、日本とメキシコの架け橋になろうと。僕はそんな大した存在ではないですけど、やっぱり日本の選手がCMLLに来たらサポートしてあげたい。それは選手としてではなく、一人の人間としてです。僕が来た時は右も左もわからなかった。団体間の提携って、やるのは簡単ですけどそれを継続していくのは大変なことなんです。今は日本から来た若い選手に僕はメキシコが好きで来たと思われるんですけど、本当にいくところがなくて、帰る場所がなくて今に至っているんですから。計算して歩んできた道ではないんです。でも、それも今だから言える話であって、まさか日本国大使から一昨年、アレナメヒコのリング上でルチャリブレを通じてメキシコと日本の両国間の関係に貢献したことが認められて表彰されるとは夢にも思いませんでした。そして昨年5月は自分自身メキシコ & CMLL20周年ということで表彰していただいて…あのまま日本にいたら絶対に経験できなかったことですから。いつか自分がリングを降りる時、このCMLLで現役を終えられたら、と思っています。でもその日が来るまでは、毎日コツコツと努力するしかないんです。

メキシコで師匠の栗栖さんと
組むことができて感無量でした

先ほども出ましたが、度重なるケガで体はガタガタなんですよね。

OKUMURA 2017年に首を折っていますからね。それでもまだ普通にガンガン受け身を取り続けています。見ている分にはわからないと思うんですけど、試合のスタイルも変えてきています。右ヒザの靭帯も断裂していて、2010年5月に棚橋弘至社長がこちらに来られた時に、歩けないぐらいヒザが痛かったんですけど、棚橋社長にテーピングを巻いてもらったんです。「三澤(威)先生(新日本プロレストレーナー)に巻いてもらううちに僕も覚えたんですよ」って。CMLLのドクターからは(手術を)考えた方がいいと言われたんですけど、そこから14年半以上経っても手術していないんです。毎試合、最初にバンテージ…その上にニーブレス、その上にニーパットをつけて試合に出ています。正座はできないです。それほどボロボロなので若い時と同じことはできないし、両肩を折っているから昔みたいに重いものも挙げられない。こんな状態ですけど毎日コンディションを整えて。ここまで来るのは大変でしたけど後悔していないし、後ろを振り返らないよう日本のニュースも入れないようにしていました。今は日本とメキシコの架け橋になろうという気持ちになりましたけど、来た当初は自分の気持ちは誰にもわかってもらえなくていいと思っていました。昔はSNSもやってなかったですし意地になっていたんですよね。

それにしても、栗栖さんの言葉がなければ確実に今のようになっていないですよね。

OKUMURA メキシコにいっていないです。やっぱりね、ケガをして試合に出られなくなると気持ちも下がるんです。2006年に後ろ盾になっていただいていたネコさんが亡くなられて落ち込んだんですけど、同じ年にCMLLがボディビル大会を開催したんです。それに出ることでモチベーションを上げました。そこで結果を出せば会社が見てくれるかもしれないじゃないですか。その時、20kgぐらい減量したんですよ。メキシコ料理って美味しいんですけどその分、カロリーが高い。トルティーヤ2枚で茶碗1杯のご飯ぐらいのカロリーになるんです。それで減量中は遠征先でお腹がすくとベビーキャロットをかじっていました。結果は2位だったんですよね。だけど、それからまた試合が増えるようになって。2007年にも開催されたので、今度こそ優勝してやる!って、さらに絞って70kg台まで持っていったんです。でも3位でした。それで翌年も出ようと思ったんですけど、パナマ遠征からメキシコに帰ったあとの初戦でさっき言った右の鎖骨を骨折して出られなくなって、その時も不安で不安で。復帰しても自分の居場所はないんじゃないかって考えちゃうんです。ヤバイと思ったことは何度もあるし、それこそこの20年間で日本に帰りたいと思ったのは1000回じゃ利かないぐらいです。日本の知らない人は「あいつはメキシコで大きな顔をしている」「偉くなったらしいぞ」って言うんです。でも偉くなっているわけがないじゃないですか(笑いながら)。 毎日が必死なんですから。だから僕も日本から来た選手にはネコさんと同じことを言うんです。「練習はきっちりやってね」「言葉が通じなくても、みんなちゃんと見ているんだよ」って。トラブルを起こさず、真面目にやっているかを会社は見ている。やっぱり、メキシコへ来た選手にはCMLLに来てよかったって思ってもらいたいんです。

新日本プロレスから修行に来た選手以外で、将来大成するなと思った選手はいましたか。

OKUMURA 提携団体の新日本プロレスからCMLLに参戦する選手しか見る機会はないんですけど、その中でMUSASHI選手はアレナメヒコに練習に来ていて、CMLL外の地方興行へ一緒にいったことが何度かありました。MUSASHI選手の最後のメキシコでの試合がモンテレイで、その時も一緒でした。やっぱり努力しているなって感じたし、そのあとFANTASTICA MANIAで一緒に試合したんですよ。あれは嬉しかったですよね。日本で一緒にできるなんて思ってもいないじゃないですか。小島聡さんも全日本を辞める時に「お世話になりました」とご挨拶をさせていただいて、2017年にメキシコ遠征に来られたんですけど、その時僕は首の骨折で試合に出られなかったんです。それが昨年からアメリカで一緒にタッグを組むようになって、まさか一緒にベルトを獲ることになるなんて(MLW世界タッグ王座を現在も保持)。プロレスの世界で長くやっていると、あり得ないことが起こるなって。武藤(敬司)さんがメキシコに来た時(2006年5月)も、2004年に全日本を退団してから久しぶりにお会いして食事したんですけど、武藤ベアのTシャツをいただきました。それも僕にとっては不思議な感覚でしたね。

栗栖さんとは何年も会っていないんですか。

OKUMURA 2018年にこっちでルチャのEXPO的なイベントがあって、そこに栗栖さんが来られて組んだのが最後ですね(9月15日、ワールド・トレード・センター。栗栖&OKUMURA&フェリーノvsソラール&ビジャノⅣ&マノ・ネグラ)。 奥さんと来られて、一緒にご飯を食べて…感無量でした。

日本ではなくメキシコで組めたというのがドラマですよね。

OKUMURA 1979年から1981年までメキシコ遠征にいっていた栗栖さんにとっては、37年ぶりのメキシコでした。大した恩返しではないですけど、僕はあの人の弟子ですから、師匠から「頑張ってんなあ!」って言っていただけたのが嬉しかったです。栗栖さんもCMLLと同じでオールドスクールの方でした。栗栖ジムではヒザが痛ければ「スクワットをすれば治るんだ!」でしたし、風邪をひいて練習を休んだら「風邪ぐらいでなんで練習に来ないんだ、バカモンが!」って怒られるしで。栗栖さんに言われて今も守っているのは「練習はやって当たり前」。だから、寒いとか暑いなんていうのは関係ない。どこが痛いといって練習をやらないんだったら、その時はもうプロレスを辞めろと。それがあるから、これほどのケガを乗り越えても現役を続ける限り練習は休まないし。

それほど満身創痍になっても続ける上で、まだメキシコでなし得ていないことはあるんですか。

OKUMURA 今まで何度も日本人のチームや外国人ユニットを結成したりしてきましたが、今でもやりたいことはいろいろあります。それが具体的にどういうものなのかは自分の中でもまだ見えていないですけど、まだお腹いっぱいじゃないんですよ。今でもハングリーな気持ちが抜けていない。僕がメキシコに来た時はCMLLにベテラン選手がいっぱいいたのが、気づいたら僕も古い人から数えた方が早くなっている。たぶん、10何番目ぐらいのベテランなんです。二十代前半の選手がたくさんいる中で、それでもCMLLで自分が輝ける場所を見つけたい。そういうハングリーな気持ちが出なくなったら辞める時だと思います。もう一度こっちに来た時の気持ちを思い出して…パンデミック前は年間150試合ぐらいやっていましたけど、この3年ぐらいは100試合ぐらいやっています。このペースは続けていきたいし。メキシコでも、アメリカにいってもCMLLの名前を背負っているので恥ずかしいことはできないですし、CMLLもアメリカやヨーロッパへ進出していて、その力になれたらいいし…個人的にはアメリカで小島さんとのチームで活動していますが、何か大きなことをやりたいですね。

現役を退いた以後は日本に戻るつもりでいますか。それとも永住も考えていますか。

OKUMURA どうなんでしょう。 今は日本に帰ることは考えられないので。ただ、自分の中ではあと何年やりたいというのは決めていて。「おまえ、まだやってんのか、早く引退しろ!」って言われたら嫌なんで「まだできるのに」と言われる状態で辞めたい。もちろん日本は好きだし、むしろメキシコにいるからより日本の素晴らしさがわかる。何も不自由しなくて、セーフティーなのは海外に出てみてそのありがたみが実感できるんです。

それほどメキシコを愛しているんですね。

OKUMURA 街で毎日のように「OKUMURA!」って声を掛けてもらえるなんて、日本にいたら経験できなかったでしょう。それもCMLLにずっと出続けてきたからこそなんです。だからこそ、この会社に貢献したいんですよね。