スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txt/場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2017年10月号には、第46回ゲストとして10月31日に7年5ヵ月ぶり7度目の引退を迎える大仁田厚選手が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!
※『月刊スカパー!』(ぴあ発行)の定期購読お申込はコチラ
※鈴木健.txt氏 twitter:@yaroutxt facebook:facebook.com/Kensuzukitxt
生かされている意味を考えたらやれることを一生懸命やるしかない。
それをやって来られただけで幸せな人間だよ
大仁田厚
©株式会社大仁田厚事務所/FIGHTING TV サムライ/カメラマン:北島和将
プロレスこそがライヴ…そこに 絶対的自信を持ってやってきた
大仁田 今日、ここへ来る時に車で慶応病院の前を通ったんだよ。34年前に東京体育館(1983年4月20日のヘクター・ゲレロ戦後)でヒザを粉砕骨折して、運ばれたのがここだったよなあって。ヒザの骨がバラバラになって一度は復帰したけど(1984年12月2日、マイティ井上戦)やっぱりダメで…体にすきま風が通り抜けるような気持ちになったのも思い出した。四十何年もやってさ、もうやりたいことをやりすぎちゃって思い返したらよく訳わかんなくなるよな。
―それもこの数年は超花火と大仁田興行とファイヤープロレスと超戦闘プロレスFMWと4つのイベントを掛け持ちであるのに加え、全日本プロレスやリアルジャパンプロレスにも殴り込んだりと常にどこかで動いていた印象です。
大仁田 それでいいと俺は思っているから。なんだろうな、駆け抜けるんだったらとことんやって駆け抜けたいっていうのが自分の中にあるんだろうな。船木(誠勝)選手に蹴られて骨折したし、去年は腰を骨折したけど休まなかった。金村(キンタロー)の引退興行の時だけ彼が主役だから俺が出なくてもと思って、リングに上がるまでにとどまったけどそれ以外はどうにかやれたし。もう(10月25日で)還暦だよ? 長州力さんに会った時に「白髪染めしてんですか?」なんて聞かれたけど、白髪生えないんだよ。俺がちっちゃい頃に50歳ぐらいの人を見た時、お爺ちゃんに見えて「この人、60歳になったら死んじゃうんだろうな」って思った記憶がいまだに残ってるんだけど、俺自身がその60になるんだから、もうすでに死んでるはずなんだよ。なのにまだ生きている。なんでだろう?って考えることがあって。
―プロレスラーになったばかりの頃は自分が60歳になってもまだやっているなど、想像もしなかったでしょう。
大仁田 続いたっていうよりも、最後まで生き残っているっていう感覚。荒井(昌一)社長が亡くなって、冬木(弘道)選手が亡くなって、サンボ浅子やグラジエーター(マイク・アッサム)もこの世にいなくて、ハヤブサ選手ももういないのに、自分はしぶとく生きている。なんで生かされているのかなんて自分ではわからない。
―デスマッチは死ぬためではなく、死ぬほど生き抜くためのものだとFMW当時、言っていましたよね。
大仁田 生き抜くことで生かされている…それは何かをやれって言われていることなんだと俺は思っている。でもそれが何かはわからないから、その時やれることを一生懸命やるしかない。それをずっとやって来られただけで、幸せな人間だよなって思うし。だから俺は、団体をやる時期があっても結局はひとりになるのかもしれない。自分が生かされていることを突き詰めたらさ、それは自分でしかなくなっちゃうもん。今もさ、俺一人でやっているんだよ。パブリシティーからアピールから何から、そこについてくれる連中もいるけど、発想そのものは俺自身のものでしかないわけで。そういうやり方を俺は今の人たちに教えているつもりなんだけど、毒だとかなんだっていって受け入れないんだよな。
―自分で考え、自分で行動し、実現させることをいくつも同時進行でやっているのを見ていると、よく時間のやりくりができているなと思います。
大仁田 そういうけどさ、俺だってデレーッとする時間はあるよ。最近はAmazonプライムやNetflixばっか見ててさ、バーッと映画見ていたりするとそういう中にヒントが隠れていたりするからね。
―今号が発売される時点で引退まで約1ヵ月となっているわけですが。
大仁田 “引退”って言う言葉はあまり使っちゃいけないから“さよなら”っていうようにしてんだけどな、フフフ。
―使っちゃいけないんですか?
大仁田 別に悪いっていうわけじゃないけど、自分の中では“さよなら”っていう言葉が一番合っているかなって思ってさ。7回目の引退っていうけど、俺自身も6回引退したのかどうかわかんない。周りがそういうんだったらいいかな…ぐらいな受け取り方だし。
―そのさよならの日までの限られた時間の中でかなり詰め込むように、次々と対戦やタッグ、実現していない電流爆破のカードなどをやってきました。
大仁田 その中でもアメリカに電流爆破を持っていったのは(8月5日=現地時間=CZWニュージャージー州フライヤースケートゾーン大会)、自分の歩いてきた道がこんなにも支持されていたんだっていう実感があったよ。2500人も観客が集まって、サイン会にも1000人ぐらいが列を作って、俺に「ウェルカム・サー!」って言うんだよ、ねえ。俺の顔をタトゥーで入れていたり、俺の名前を子どもにつけたり、そんで俺自身も見たことがないような大仁田グッズを持ってくるんだよ。なんか組み立てた大仁田フィギュアみたいなの。
―当然、アンオフィシャルのものですよね。
大仁田 おまえら、どっから買ってきたんだよ!って。ファンだけじゃなくて、選手もみんなちっちゃい頃に俺を見てプロレスが好きになっている。だからハードコアもとんでもないことやっていて、逆に俺が教えられた気がした。観客の熱もすげえしさ。
―日本でのここ数年における大仁田厚のファン層はどのように映っていましたか。
大仁田 新しいファンも増えているとは思うけど、パーセンテージ的にはまだ昔から見ているファンの方が多いんだと思う。俺に話かけてくるファンは30年間見続けていますとか、絶対数は少ないけどブームに左右されないコアなファンがついてきてくれている。よく写真をもらうんだよ、俺が若手の時に撮ったやつで、一緒に写っている子どもが私ですなんていうんだけど、そいつはもうおっさんになっているから「おまえかよ!」って突っ込むんだけど。そういうことで自分がやってきた時間の長さを感じたりするもんなんだよな。
―大仁田信者と呼ばれる方々も世代が入れ替わっていますよね。
大仁田 コアな層は変わってないけど、ライヴを見て新しい層が入ってくる。俺はプロレスこそがライヴだと思っているから。映像でも楽しめるけど、あの参加型ならではの空気は現場にいなきゃ味わえないし、俺はそこに絶対的な自信を持ってこの何十年と続けてきた。一年中さ、夏ならまだしも冬のクソ寒い時期に水をぶっかけられて喜ぶなんてライヴならではだろ。
―それをFMWの頃からずっと…。
大仁田 ずっと同じことやってるっていうんだろ? 違うよ。俺、ちょっとずつ変えてるから。最近では子どもをリングに上げたりしているし。
―大仁田劇場の締めも『ワイルドシング』から『やさしくなりたい』に替えたり。
大仁田 試合も試合後も俺にとっては表現の場であることには変わりない。ただ、試合に関してはいつか体力の限界は訪れるものだから。やっぱり、机の上へのパイルドライバーがやれなくなったらおしまいだと思うし。
電流爆破をやりたいんだったら
どうぞやってください。ただ…
―プロレスを“表現”と考えているということは、伝えたいものがあるということですよね。
大仁田 うん、そこはあらかじめこれを伝えたいんじゃーっ!っていうのはなくて、ライヴでその瞬間その瞬間感じたものだよな、俺の場合は。マイクにしても言うことを用意したことなんてないから、10月31日に試合を終えて何を言うかなんて自分でも現時点ではわからない。用意していたらライヴじゃないじゃん、それって。生演奏じゃなくてあらかじめ仕込んでいたCDを流すだけみたいな気がするんだよな。観客の息づかいや目線、そして距離感…そういうので俺自身の感じ方が変われば出てくる言葉も違ってくる。
―観客とリング上の垣根を最初に取っ払って距離を近づけたのもFMWでした。
大仁田 新日本も全日本も鉄サクがあるのが当たり前だった中で、俺は鉄サクを使わなかった。それは観客との距離を近づけてダイレクトに訴えたかったという部分があったし。座って拍手して見るのもプロレスの楽しみ方だとは思うけど、俺は全員立たせたかった。ていうか、場外乱闘でもう座るイスねえし。そうしたら立ってるしかねえじゃん。いいだろうよ、それで。ウェルカム・トゥ・プロレスリング・ワールドだよ。
―まさに参加型。
大仁田 なんでもそうだけど二大メジャーと同じことをやっていたら勝てないわけだから、フロンティアじゃなきゃいけない宿命にあったわけだ。それを思うと、ちゃんと団体名に“フロンティア”(FMWはフロンティア・マーシャルアーツ・レスリングの略)ってついていたのは、そういうことだったのかなって今にして思うよね。あの頃は全日本と新日本の二大メジャーしかなくて、それに対抗してFMWを創ってもまさか対抗できると俺自身も思わなかったし。それでもなんとかやっていくうちにインディーという対立概念に持っていった。そこから川崎球場に何万人も集めて、最高で年間250試合全国をまわっていたわけだから。そういうインディーの礎があったからDDTやドラゴンゲートのような存在も出てきた。今では地方にもプロレス団体がたくさんできて。
―多団体時代の根源は大仁田FMWになります。
大仁田 それが功罪でいったら功になるのか罪になるのかわかんないけどさ。
―罪ではないと思います。それによって生まれた各団体が支持されているわけですから。
大仁田 罪っていうのは、それまでの馬場さん、猪木さんにしか許されなかったものを俺がやったっていう意味ですよ。でも罪だとしても俺はそれでいいと思ったからFMWから数えて28年やってきたわけだし。功かどうかはわからないけど、10月31日も、もうこれ以上はイスを並べられないっていうぐらいにチケットが売れている。もっと大きな会場でやった方がよかったんじゃないかとか、川崎球場(現・富士通スタジアム川崎)がよかったっていう人もいるけど、さっき言った体をすきま風が抜けていった会場であり、デビュー戦の会場であり、FMWの旗揚げ2連戦の会場であり、いろんな歴史の詰まった後楽園ホールが一番いいかなと思う。
―ライヴ感を味わうなら大会場よりも密閉空間の方がいいでしょうね。
大仁田 火曜の平日だぜ? そんな時に来てくれるお客さんはホンモノだよなあ。ありがたいよ、ホントに。だけどよ、6回も引退してんだからいい加減にしろよって話だよな。
―それを自分で言う! 10月25日に還暦を迎え、2日後が名古屋国際会議場大会になります。そこが還暦電流爆破になるんですよね。
大仁田 あの会場もFMWがプロレス初開催なんだよな。言った時は「還暦で電流爆破かよ!」って自分でそりゃすげえと思って言ったんだけどさ。まあ、そこが還暦爆破になるだろうな。
―電流爆破は大仁田厚一代のものではなく、この業界に遺していただけるんでしょうか。
大仁田 どうぞどうぞ、やりたいんだったらやってください。ただ、誰がやっても二番煎じなわけだから、その中で使いこなせることができるか。あの時代を知っていたり、あるいはあの時代の俺を見てプロレスラーになった世代も出てきた中で、やろうと思うやつは出てくるかもしれない。そこで俺はNOを言うつもりはない。長与(千種)さんが爆破女王っていってるんだったら、それはそれでいいことじゃない、ねえ? 長与さんとのタッグも、なんとなく大仁田&長与組っておもしれえなあって俺が思ってやってみたら、プロレス大賞のベストタッグ賞を獲るまでいったわけで。狙っていなかったところまで持っていけたのもよかったと思うし。
―それも破天荒な発想だったからでしょう。
大仁田 俺がプロレスから一番何を学んだかっていうと「型にとらわれるな」。それがいろんなものにつながっていって、いろいろ生み出せた。ただ、その中で俺はブレなかったからね。ブレ方を知らないっていうか、ブレられる人間だったらもうちょっと違う人生を送れたのかもしれない。今頃、副大臣ぐらいにはなっていたよ。でもさ、だからといってそれを失敗だと思わず人生の勉強だと思ってやってきた結果、最後までプロレスラーでいられたんだよな。
―ええ。
大仁田 プロレスをやっていたからいろんなことを体験させてもらった。タレント活動も連ドラもバラエティー番組も…みんな、プロレスをやってきた恩恵ですよ。いろいろやって…うん、その中でプロレスに関してはやりきったって思える。でもさ、でもよ、さっきも言った通り、10月31日の試合を終えた時に自分がどう思っているかなんて今の時点ではわかんないんだから、またやりたいことが浮かんでくるかもしれない。それは俺もわかんねえよ。だってさ、健ちゃんも今はまったくそんなこと思っていなくても、明日になったらこのビルの窓から飛び降りたいって思っているかもしれねえじゃん。
―どうですかねえ。
大仁田 な、そうだろ? それとおんなじだよ。
―でもプロレスをやってきたことでの充実感、達成感はありますよね。
大仁田 そこは非常に難しいところというか、プロレスって奥深いものだから…この前、空き地みたいなところにいってプロレスやったんだよ。俺もみんなと一緒になって草刈りから始めてさ。草刈らないとリングが組めないようなところなんだよ。海岸沿いでボラなんかが打ち上げられて死んでいるって、そこで鎌持って一生懸命刈るわけよ。そういうことで充実感を得ることもあれば、東京ドームみたいなデッカいところでやれることの充実感もあるわけじゃない。俺の知らないプロレスによって得られる充実感がまだあるかもしれない…いや、あるんだよ。カムバックはしないけどさ、どこかの田舎の片隅でギャラなんかいらないから、プロレスごっこしていたい自分もいる。だってプロレスが嫌いになるんじゃないんだからさ。リングの匂いをたまにかぎたいよなって思うぐらいはいいじゃねえかって思うんだけどな。そうは言いつつ、もう10月31日以後に向けて俺は動き出しているんで…カムバックはないよ。