スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txtの場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2020年8月号では、第76回ゲストとして大日本プロレス・伊東竜二が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!
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終わりじゃなく、
そこからがやるべきこと
伊東竜二(大日本プロレス)
©大日本プロレス/FIGHTING TV サムライ/カメラマン:中原義史
日本のプロレス界で一番
文体のタイトル戦をやった男
伊東選手はBJW認定デスマッチヘビー級王座7度獲得のうち、横浜文化体育館で5回獲っています。
伊東 これは勝手に言っているんですけど、日本のプロレス界の過去をさかのぼっても、横浜文体で一番タイトルマッチをおこなっているのは自分だと思います。
でしょうね。ミスター横浜文体。
伊東 最初に文体でやった試合は憶えていないんですけど、大日本プロレスがそこをビッグマッチの会場として使っているのはわかっていて、やっぱり大きいんだなと思ったのは残っていますね。巡業で回った各地方の体育館よりも明らかにデカくて、ほかの体育館だったら床に敷くシートを自分たちで何cmとか測りながら敷くんですけど、文体は大きいんで昔から業者さんにやってもらっているんですよ。そういうところも、ほかとは違う会場だってなりますよね。
横浜文体での思い出の試合というといくつも出てくると思うのですが、最初に浮かんでくるのは?
伊東 それはもう、大ケガした試合ですね(2006年9月10日、佐々木貴のデスマッチヘビー級に挑戦)。リング上に2mぐらいの鉄檻を立てて、その上へさらに2mぐらいのラダーを立てるというバカなことをした結果、右腕前腕橈骨(とうこつ)の太い方の骨がポッキリ折れまして、左の手首も脱臼(月状骨周囲脱臼)という。
あの時は、飛んでいる最中にこれはまずいと気づいたんですか。
伊東 上に登った瞬間、相手の距離が遠いぞとは思ったんです。
飛ぶ前からいつもと違う距離なのがわかっていたんですね。
伊東 だからいつもより飛べるよう、思い切り踏ん張ったら「ガコーン!」ってラダーが動いちゃって。それでバランスを崩して前のめりに落ちていったんです。ここならいけるというところからちょっと遠いところに相手をセットしてしまっていたんですね。ああいうのって練習できることではないじゃないですか。常にぶっつけ本番でやるしかない。それがいざ上から見たら「あれ? ちょっと違うぞ」という位置になっていた。でも、そこでもう一度降りてセットし直すなんていうことはできないわけです。
どっちらけになっちゃいますもんね。
伊東 そうそう。だからそこは距離がいつもと違っていたらいつもより飛ぶしかないと思うようになる。そこで思い切り踏ん張ったらラダーがどうなるかまでは、考えが及ばなかったんです。
ゲンのいい会場というだけではなかったと。
伊東 よかったこととしては、やっぱり最初にデスマッチヘビーのベルトを獲った時ですね(2003年8月4日、金村キンタローより奪取)。あとは大日本の10周年、15周年、今年3月の25周年と(20周年は記念イヤーとしておこなわれ、両国国技館に進出)、全部で文体のメインを務めているのでそれらの試合ですかね。特に3回の記念大会のメインなんて、狙ってやれることではないじゃないですか。そのつどのタイミングでやることができた。大日本にとっても旗揚げ戦の会場というところから始まって歴史を積み重ねてきましたけど、それと同時に伊東竜二個人としても切っても切れない会場ということになります。
その文体が8月29&30日でラストを迎えます。何年か前から取り壊し→建て替えになるとは聞いていましたが、その大トリを大日本が務めることになりました。
伊東 そのラストの文体をチャンピオンとして迎えられるのはありがたいんですけど、ものすごく寂しい思いもあります。ただ、その先ですよね。また新しい会場ができた時に(年内にサブアリーナとして横浜武道館が施工、2024年に文体は横浜ユナイテッドアリーナとして開館予定)、そこでもまたチャンピオンとしてやっていきたいなと思います。果たしてできたばかりのきれいな会場で大日本がやらせてもらえるかですが。
横浜文化体育館はデスマッチに関して寛大でしたよね。
伊東 画鋲がNGである以外はほとんどやれましたからね。養生シートに穴が開いちゃうんで画鋲だけは…となったんですけど。あとは上(2階スタンド)から飛んで係のおばちゃんが「何やってんの!」ってぶっ飛んできたことがありました。選手がケガをするというよりも、それによってお客さんが巻き込まれたらどうするの!ということだったんですけど。
文体はロビーも広い分、ほかの会場とはまた違う活気になりますよね。
伊東 言われてみればそうですね。出入り口のところにあるから何千人というお客さん全員が帰りはそこを通っていくわけで、それに加えてウチの場合は会場の外まで出て物を売っていますからね。
あれも会場前が広場になっているからできることですよね。夜の闇の中に血だるまのアブドーラ・小林さんがドッカと座ってグッズを売っていたり。
伊東 あれもウチの人間が何回も文体さんと打ち合わせをしているからできることだし、飲食に関しては保健所の許可も取っています。何十回とやっているうちに文体さんの方からもこういうのはどうですかという声をいただいて、お互いに盛り上げていこうところでやってきたんです。
信用の積み重ねですね。後楽園ホール、新宿FACE、新木場1stRINGといったところを除けば、会場側と団体が濃い関係を築けるというのも文体は独特でした。
伊東 3月16日の時も、こういう世の中の状況でしたので文体さんとは何度も打ち合わせをしました。換気をしっかりするとかいろいろあったんですけど、文体さんからは「しかるべき対応をやった上で、大日本さんにはぜひやっていただきたい」と、頭ごなしにこういう時期だからやらないでくれということは言われなかったんです。さすがに5月はできなかったですけど。
本間朋晃の名前を出したのは
文体ゆかりの人間として来場を
その5月に文体でやる予定だった藤田ミノル選手とのデスマッチヘビー級戦が2連戦初日のメインです。
伊東 4ヵ月延びたわけですけど、これが初めてベルトを獲ったとかデビューして2、3年とかだったら違ったかもしれないですけど何度も獲っているベルトですし、20年もやっているのでそれほど大きな影響は感じていないですね。「まあ、こういうこともあるさ」ぐらいの感じで迎えられるとは思います。
藤田選手とは新人の頃に少しだけ被っていたんですよね。
伊東 自分が入門した時はいまして、デビューするちょっと前に飛び出ちゃいました。自分が入った直後に「ポーゴ&中牧離脱事件」というのがあったので、またそういうことがあったのかぐらいにしか考えられなかったんですけど。
選手がある日、こつ然と姿を消す団体に自分が入って不安にならなかったのかと思うんです。
伊東 うーん、その頃はデビューするしないぐらいの段階だったので、そういうことに頭を向けていられなかったというのが正直なところで。自分のことで精一杯。
出ていった人間を見返してやるぜ!みたいにはならなかった。
伊東 そんなことを思うような立場でもなかったし、あまり物事を深く考えることもなかったんで、先輩たちがいなくなっても不安にはならなかったんです。藤田さんが抜け、本間(朋晃)さんが抜け、葛西(純)さんが抜けるあたりまではド新人でしたからね。
藤田選手から直接指導は受けていたんですか。
伊東 いや、当時の藤田さんは日高(郁人)さんと組んでバトラーツやみちのくプロレスにも出ていたんでそれほど道場にいなかったんです。合宿所には住んでいたので、帰ってきた時だけ顔を合わせるような感じで。ちゃんこの作り方も直接教わったのは一つ上の葛西さんだったし。
ちゃんこ作りを教えてくれた人と10年後に年間最高試合賞のデスマッチをやることになるとは、なかなかの線ですよ。
伊東 そうですよね。先輩たちが次々とやめても続けられたのは、やめて何をするというのがなかったというのも大きかったと思います。プロレス以外でやりたいことはなかったので。だからあの頃のことを思えば、こういう形で藤田さんとデスマッチヘビーのベルトを懸けてやることになるとは…ですよね。
そもそも藤田選手は、デスマッチがやりたくなくて大日本を飛び出した人です。
伊東 しかも対戦する場が横浜文化体育館で、そのラストですからいろいろ揃いすぎですよね。藤田さんがデスマッチをやるようになって大日本でも闘ってから、シングルでやったことはないんですよ。
初一騎打ち。
伊東 それが文体のメインでタイトルマッチですから、なんとしてでも防衛しないと。離れていた時期の方が長いのであまり元先輩という意識はないんですけど、向こうが離れている間も自分は大日本一本でずっとやってきて、その中で経験してきたことは藤田さんにはないものじゃないですか。逆に藤田さんがいろいろなリングで経験してきたことを自分は持っていない。イメージとしては“つかめない”なんですよ。何が一番得意なのか、あるいは一番得意な凶器は何かとなってもそれに当たるものが思いつかない。ないわけではないはずなのに、これと一本に絞りづらいものがある。藤田ミノルというデスマッチファイターは、特徴があるようでなく、ないようである。正直に言ってしまうと、大日本の選手やほかのレギュラーで上がっている他団体・フリー勢と比べるとやりづらさはあります。今はそういうタイプのプロレスラーではないけど、自分がデビューする前に先輩として見ていた頃はいろんな技を持ったタイプだったので、おそらくそういう部分も今回の試合に関しては出してくるんじゃないかとも思うし、あの頃にはなかったデスマッチならではのハチャメチャな部分も出せるわけで。
そう言われると確かに読みづらいタイプですね。大丈夫なんですか。
伊東 はい、大丈夫だと言ってこそのチャンピオンだと思うので、大丈夫です。大日本生え抜き1号のアブドーラ・小林からベルトを獲って、生え抜き第2号の藤田ミノルを倒して、そのあと生え抜き3号の人が出てくる…かどうかはわからないですけど。
3・16文体でベルトを奪取し、藤田選手の挑戦を受けたあとに本間選手の名前まで出したのは驚きました。
伊東 4号以後は越後雪之丞さんとか何人かいるんですけど、現役でやっているのは葛西さんが次になります。本間さんの名前を出したのは単に1号、2号、3号ということで…なんですけど、ぜひその日は会場に来ていただきたいと。デスマッチのベルトに絡むことはまずないでしょうけど、プレゼンテーターなり…。
現役プロレスラーでプレゼンテーター!
伊東 大日本プロレスでデビューした人間として来てもらいたいなあというのがありますね。藤田さんよりも本間さんに習ったという思いが強いんで。
ケンドー・ナガサキさんが退団したあとの道場は山川竜司選手、本間選手が中心になって練習をしていたんですよね。
伊東 あの頃は教える声も聞こえていましたからね。今は何を言っているのか全然聞き取れないですけど。以前、後楽園ホールの近くですれ違ったんですよ。「あっ、本間さん、お疲れ様です」と言ったら「おお、伊東! ◎▲∞○#■×◇%!」って、まったく聞き取れなかったので「ええ、そうです」って返事したんです。それで「じゃあな!」って言って去っていったんで、おそらく問題なかったと思うんですけど。
2日目の30日は文体と縁がある選手や関係者が集まっての開催となります。
伊東 大日本以外にもさまざまな団体が文体でやっていますし、そういったところの皆さんが集まって面白い大会にしたいですよね。大日本では15周年の時や今年の3月にOBの方々へ集まっていただきましたけど、ここは大日本にというよりも横浜文体にということでいろんな人に来ていただきたいんで。
MEN’Sテイオーさんにも来ていただきたいですよ。横浜文化体育館といえばプロレス界においては昭和の会場として現存する本当に貴重な会場です。その歴史の最後を老舗団体ではなく大日本が締めるということに関してはどのような思いがありますか。
伊東 これは大日本プロレスが横浜にあるということなくしてそうはならなかったでしょうし、ビッグマッチを続けてきた中で大日本として最後を押さえることができたのはありがたいとともに、盛大に横浜文化体育館を送り出したい…と言いながら、最後だったらどこか壊してもいいんじゃないかとの思いもあったりします。
9月6日に閉館しその後、取り壊しに入ります。
伊東 ただ、意外と頑丈なんですよ、文体って。何十年も使用され続けてきた建物ですから、そこは強いんで壊れないんでしょうけど、何か別の形で爪痕を残したいですよね。会場のスタッフさんにも印象に残るものすごいことをやります。
70代で大流血しながら平和的な
空間になる小鹿会長が人生の目標
大日本の皆さんで解体工事を手伝えば、自分たちの手でピリオドが打てますよ。
伊東 解体プロレス! でも、自分らがいっても邪魔なだけでしょうね。そのラストを自分がメインを務めて迎えるなんて、デビューした頃は想像もしていなかったです。文体よりもまず自分の方が20年も続くとは思わなかったですから。みんな、そんな具体的にこうなりたいって思って入ってきていないと思うんです。ただ、プロレスがやりたいという一心で入ってくるから、20年後にこうなっていたいなんて考えたこともなかった。そもそも自分は、TAJIRIさんを見て大日本に入ろうと思ったんです。『トゥナイト』という深夜番組で新日本プロレスと大日本プロレスが対抗戦をやっているという特集がされて、そこでTAJIRIさんが躍動しているのを見て、大日本プロレスってすごいんだなと思って興味を持ったのが最初で。自分が入った時にはすでにTAJIRIさんも例によっていなくなっていたんですけど、だからデビューしてから進むべき道としてはTAJIRIさんと同じジュニアヘビー級になるのかなあ…ぐらいの意識でしたね。
きっかけとなったTAJIRIさんがすでにいないにもかかわらず、大日本に入ろうとしたのはなぜだったんですか。
伊東 そこは勢いで入門テストを受けたんですけど。TAJIRIさんに対しすごいと思う一方で、小鹿さんに対し「なんだこれ?」と思って(新日本との対抗戦は1勝3敗だったにもかかわらず自己解釈で「1勝1敗2分の五分だにぃ!」とテレビで言い張っていた)その面白い方を取ってしまったんですね。
将来的なものよりも、その時点で面白いと思った方をつまんでしまう性分なんですか。
伊東 あ、そうかもしれないですね。
堅実派のイメージで見られていますよ。
伊東 今は立場上あれこれ考えて動きますけど、若い頃は気の向く方に飛びついていました。だから会社のことも考えないで好き勝手に発言した結果、とんでもないことになったり。団体間の交渉も一切ないのに葛西純の名前を出すという。
それが年間最高試合賞につながったんじゃないですか。
伊東 でも、今の自分の立場で後輩がそんなことを言ったら「おまえ何、勝手なこと言ってんだ!」って叱りますよ。テイオーさん、志賀さん(シャドウWX)がいなくなって、自分の上は小林さんと谷口(裕一)さんの2人しかいないってなったあたりぐらいから全体のことを考える自覚のようなものが芽生えてきましたよね。
ちゃんと芽生えてよかったですね。芽生えないままずっとやっている方もいる中で。
伊東 小林さんはだからといって全然ダメかといったらそうじゃないんで。まあ、基本はダメですけど、ああいう人がいてもいいのではと。
アブ小プロが大日本の人間全体をまとめる姿は、ちょっと想像できません。自由人ですからね。
伊東 それぞれ得手不得手があって、自分ができないことで小林さんができることもありますから。でも、気がつけばそういう立場になっていたなっていう感覚です。20年もやっていると、そうなるものなのかなって。今の状態が100点ではなくとも悪い方にはいっていないので、これを続けていってもっと上にいけたらと思います。
ここで言う上とは?
伊東 自分だけじゃなく会社的にもみんなが潤って、こんな時代でもみんながどっしり構えられる会社としての体力ですよね。それにはいろんな視野を持ってやれるようになりたいし。この数ヵ月間はどうなったらこの状況が打破できるのかとか考えましたけど、ちゃんとした薬ができているわけでもないし、100%完ぺきな予防策ができたわけでもないのでどうにかなることではないんですよね、現状としては。みんなが手探り状態の中で、今できることは何か? その中からやるべきことの答えを見いだしていました。みんながみんな初めての経験だから、みんな知識がない。立場的に決断を迫られても、自分自身もその知識がない中で、考えることによって成長できたのではという数ヵ月でした。
団体を存続させるためのクラウドファンディングでは1125人の皆様から1237万5500円もの支援が集まりました。
伊東 団体として25年もやっていると、これほど多くの皆さんに支えられてきたんだなと改めて実感しましたよね。
これも長い時間をかけて培った信用が一つの形となった例です。
伊東 最初に目標額を1000万円にすると聞いた時は、この会社は何を考えてんだ?と思いました。でも、自分が思っていた以上に大日本という団体はファンの皆さん、応援してくださる皆さんとの信頼関係を築いてきたんだなと。今度はそれに対する恩返し、感謝の思いを全国の皆さんに届けなければいけない。
やらなければいけないことが増えました。
伊東 支援していただいて終わりじゃなく、そこからが我々のやるべきことですから。まだまだやめられないです。自分の目標はグレート小鹿会長なので。
あの年になっても現役を続けると。
伊東 ギネスに申請しようとしていましたよ。
ああ、なんでもスマホから申請しようと進んでいくも「ヘンなところを押したら消えちゃった」そうで。
伊東 「ギネスに申請するにはどうすりゃいいんだ?」とスタッフに確認しているところを見ました。「お金がけっこうかかるみたいですよ」って説明されたら「うーん、でもなあ…」とか言いながら、なんとかそれも含めてやってもらおうとしていました。
あれ? 以前にこの連載で小鹿さんにご登場願った時に、事務所のスタッフさんにやってもらえばと言ったら「私事でスタッフに動いてもらうわけにはいかない!」と、あくまでも自分でやるという言い分でしたよ。
伊東 ウハハハハハッ! 小鹿会長は70代半ばで大流血して、バラモン兄弟にスーツケースを投げつけられている、しかもそれを見てお客さんが拍手をして見ている。それって、ものすごい光景じゃないですか。普通に考えたら悲惨な状況なのに、かなり平和的な空間になってしまう。あれができるのはすごいなと思うんです。
70代のお爺さんが血だるまになったら普通は引きますよね。
伊東 人間として、その域に達することができたら素晴らしいですよ。人生の目標がグレート小鹿。
ということは、やっぱり大日本に入ってよかったんでしょうね。
伊東 入門テストを山川さんに見ていただいて、そこで合格となって小鹿会長にこの新人を入れますと報告しにいったんです。そこで最初に「そうか。じゃあな、やめる時は一声かけていけ」って言われたんです。
これから頑張ろうとする新人にいきなりやめる時の話をする!
伊東 次々と飛び出ていった人たちが言わずに去っていったんでしょうね。「どんなに辛くてもひとこと挨拶をして、やめてからも笑顔で会場へ来られるようになれよ」と。その言葉から小鹿会長のもとを一度も離れることなく続けてきたことになります。
70代の伊東選手は、ああなりますか。
伊東 なれるかどうかはわかりませんが、目指します。