鈴木健.txt/場外乱闘 番外編

スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txtの場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2022年4月号では、第95回ゲストとしてプロレスリングZERO1の“弾丸戦士”こと田中将斗選手登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!

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田中将斗(プロレスリングZERO1)x鈴木健.txt 場外乱闘 番外編

11年ぶりの両国国技館は
ZERO1が築き上げてきた
信用の集合体であり
間違いではなかったことの答え

田中将斗(プロレスリングZERO1)

江崎さん(ハヤブサ)を間近で
見られたのが財産になっている

昨日(取材日の前日が3月3日)がハヤブサ選手の七回忌でした。あれから6年が経ったことになります。

田中 今でも実感がないんですよね。普通に「おにいちゃん!」(ハヤブサさんは田中をこう呼んでいた)って連絡が来るような感じしかなくて。僕らはファンの人たちが知っているハヤブサよりも江崎(英治)さんの方をより見ていたわけじゃないですか。だから思い起こすのもそちらの方で、その分ハヤブサになった時のカッコよさが強烈な印象として残るという。江崎さんは素顔もカッコよかったから、僕から見たら本当にスターっていう存在なんですけど、そのカッコいい顔で三枚目的なことを誰よりも率先してやるところが高校時代にラグビー部だった僕からすると、すごく衝撃的だったんです。江崎さんと本田さん(ミスター雁之助)は学プロ出身だから、そのノリのままなんですよ。

学プロのノリをプロに持ち込んだ最初のプロレスラーかもしれません。

田中 大学で鍛えられたんでしょうね、とにかく芸達者で酒の席での振る舞い方に長けている。そんなお二人が場を盛り上げたあとに「おまえらも面白いことをやれ!」って言われるんですけど、先に面白いことをやって見せてハードルを上げてからこっちに振ってくるんです。あんなカッコいい顔の人が面白いことをやったら超えられるわけがないやないですか。ましてや江崎さんはカッコいいのと面白いのに加えて歌までうまいと、すべてを兼ね備えている。そういうノリってラグビー部時代にはなかったので、あまり上下関係にこだわらずバカなことを一緒にやるという文化に驚いたというか。

高校の部活はバリバリの体育会系だったでしょうね。

田中 もちろん楽しいのは楽しいんですけど、一番の苦痛でもあった。僕、お酒が弱いんです。それでも飲まされた上に絶対勝ち目がない芸をやらされるというのが、FMWに入って一番の辛さでした。「酒は飲んでいるうちに強くなる」っていってガンガン飲まされたんですけど、一向に強くならなくて。大仁田(厚)さんの付き人になってから飲まなくていいようになって、命拾いしました。

大仁田さんも飲めないからそういう席にはならない。

田中 そういう席を除けば僕が新人の頃って嫌な思いをしたことはなかったと思います。江崎さんにも本田さんにもかわいがってもらえたし。僕がデビューして数ヵ月後に江崎さんはメキシコ修行にいったんですけど、それから帰ってきて江崎さんのお客さんのところにも連れていってもらって、その方とは今も交流が続いているんです。それも江崎さんがくれた縁じゃないですか。

2001年にFMWを離れた以後も、ハヤブサ選手との関係は続いていたんですか。

田中 それほど頻繁には会っていなかったですけど、たまに連絡を取ったりどこかの会場で会って話したりで、まったく関係は変わらなかったです。ドラゴンゲートの会場で一番会っていたと思うんですけど、ドラゴンゲートの選手ってファン時代にハヤブサを見ている人が多いようで、すごくリスペクトして迎えるんですよ。FMWを離れたのも、人が嫌いでやめたわけではなかったので、江崎さんに限らずみんなと普通に接していたと僕は思っています。

リング上のハヤブサに関しては、どんな存在として残っていますか。

田中 江崎さんが亡くなられた時に、WWEの選手たちも追悼の意を表していたじゃないですか。ハヤブサとしてリングに上がっていたのはそんな長くなかったのに(FMWに定着したのは1995年~2001年の6年間)、それほどの人たちの中に刻み込まれている。昨日一日も本当にたくさんの人たちがツイートしていましたよね。僕もツイートさせていただいたらものすごい数のリツイートがあった。そういう部分で、ハヤブサという存在の大きさを僕は実感していくんだと思うんです。これから僕が生きている間に勝てる人ではないですよ。

シングルマッチで一度も勝てなかったんですよね。

田中 はい。それだけではなくたたずまいや、それこそ存在の強さっていうのかな。そこに関しても、これから自分が何をなし得ようとも超えることはできないと認識しています。若い頃にああいう存在を間近で見られたのはプロレスラーとしての財産ですよね。今の人たちはどんなにあこがれても映像でしか見られないけど、僕らは同じ時代を生きて、同じ空気を吸って、同じ運命の中でFMWにいたんですから。

その財産を具体的に言うと?

田中 ハヤブサの身近にいることは、ファンには見せなかったいくつものケガを背負って体の痛みに耐えながら飛んでいる姿を目撃しているということなんです。「お客さんはハヤブサが飛ぶところを見たくて来ているんだから、どんな体でも飛ばなきゃダメだろ」って江崎さん、言っていました。それは痛々しい部分でもあるんだけど、僕にはカッコよく見えました。

それをファンに見せようとしない姿勢、ですよね。

田中 そうです。プロとしての姿勢がカッコよかった。だから僕は今でもちょっとぐらいキツくても無理を押してやっているし、田中は黒いというイメージを持たれているから日焼けもするし。

ガッチリ焼いているその裏にはハヤブサ選手から学んだ姿勢があると。

田中 普段はどんなにバカなことをやっていても、ハヤブサのイメージを守ることについては頑として妥協しなかった。だから、あれから6年が経っても変わらぬイメージでみんなが思い出せるんだと思います。

みんなの中にあるハヤブサのままです。

田中 それは江崎さんのこだわりの賜物ですよ。誰よりもまず自分がハヤブサを大切にしていて「俺とハヤブサは別モノだから」って言っていたぐらいですから。あのパッとスイッチが入る瞬間がね…カッコよかったですよねえ。僕がFMWに入った時は江崎さん、本田さん、中川(浩二)さんが先輩としていて(ターザン)後藤さんという指導者に基礎を教わることができたというのは、すごく周りに恵まれたタイミングで入門できたんだなって思います。あの時の先輩方の教えがなければ今の僕はいない。

若い頃に鍛えると長持ちすると、この業界ではよく言われますが。

田中 それって本当ですよ。あの頃の後藤さんって、今の僕よりも年齢が下だったのにすごく年上のおじさんに見えたんです。じっさいはそんなに離れていないはずなんですけど(9歳違い)。そのおじさんに見える人がガンガンに練習しているんです。それを見て「後藤さんと同じぐらいの年になっても同じことができるようになるんかな」と思いながらやっていて。実際、この年齢になっても動けますからね。

後藤さんがやらせていたのは全日本プロレスの練習メニューだったんですよね。

田中 メジャーとインディーは違うとか言われていましたけど、日々の中でやっていたことは変わらなかったんです。そういう意味でも後藤さんに教わったのはよかったんですよね。あれを経験していなかったらFMWの中では続けることができても、外に出た時に通用しない人間になっていたと思います。FMWを出てから新日本、全日本、ノアとどこにいってもやれたし、何よりもまったく負い目がなかった。

最初に「ウチへ来ないか」と声を
かけられたからZERO-ONEに

そうして自分の礎を作ったFMWですが、実はZERO1に在籍している期間の方が断然長くなっているんですよね。

田中 そうなんですよ。そんなにFMWが長かったわけではないんですけど、海外のファンの人たちはFMWのイメージが強いようで。プロレスの青春時代は?ってなったら新生FMWの頃って思っているので、FMWのイメージを持たれたままであることが嫌だというわけではないし、いろんな団体に上がっていても僕は今でもインディーの選手だと思っているので。メジャーには負けないというプライドは持っていますけど、自分がメジャーだとは思っていないし、インディーの田中将斗だと思われるのは嫌じゃないです。

FMWが青春だとすると、ZERO1は何に当たるんでしょう。

田中 FMWの頃は仕事という意識がまったくなくて。大仁田厚にあこがれて、その好きなものをずーっとやってきた感覚しかないんです。だから金銭的なこともまったく気にしていなかった。でも、フリーになってそのあとZERO-ONE(当時)所属になってからは稼ぐための仕事という意識も強くなってきまして。

プロ意識が芽生えたと。

田中 そういうことですね。プロとしての仕事がどういうものか。それによって金銭を得ることの意味ですよね。あとは人間関係のつながり。それがなかったらZERO1にいなかったと思うし。フリーになって一番目に「ウチへ来ないか」と声をかけてくれたのがZERO-ONEだったんです。FMWをやめてコンプリートプレイヤーズになった時、邪道さんと外道さんは全日本プロレスとパイプがあったのでいずれはそこにいくと話していて、僕もその流れで一緒にいこうと思っていたんですけど、直接向こうから声が来たのはZERO-ONEが先で。ZERO-ONEとしてはヘビー級が欲しかったようで、邪道さんと外道さんはジュニアだったから僕にだけ声をかけたそうなんです。ただ、その時点ではいろんなリングに上がりたくてコンプリートプレイヤーズになったんで、1人だけだったら今は上がりませんという感じになって。でも、そのあと邪道さんと外道さんが新日本に上がるという流れになって、そのタイミングで僕はZERO-ONEへ上がるようになったんですけど、その前に全日本からも声がかかって。

武藤全日本の前に上がっていましたよね。

田中 武藤(敬司)さんたちが来るタイミングでZERO-ONEにいきました。「まだ発表していないけど、武藤さんたちが来るから田中さんも入団して」と(馬場)元子さんから言われて。

世に出る前に武藤さんたちが全日本に移籍することを知っていたと。

田中 元子さんからそんなこと言われたら嬉しいじゃないですか。

選手として評価されているということですもんね。

田中 僕は元子さんからよくしていただいたというイメージしかないんですけど、その1週間ぐらい前にZERO-ONEからもう一度「そろそろどうですか?」という声がかかった。一番目に声をかけてくれた団体だったし、僕はフリーになった時点でフリーって1年、よくて2年ぐらいで稼げなくなるというのがわかっていて、ちょうど1年が経つ頃にZERO-ONEから入団の話があったタイミングで。それで元子さんにも「ZERO-ONEから入団しないかと誘われているんです。その話が流れたら、改めてお話を聞かせていただけませんでしょうか」と正直に言いました。条件的にもいいものを提示していただいたんですけど、先に話をいただいた方があるのでと説明して。そのことをちゃんとZERO-ONEにも報告して、それなら早く入団という形をとりましょうと言ってくれた。それも元子さんのところにいって報告しました。僕の記憶ではその時点で田中vs小島(聡)というのが発表されていたんですけど、武藤さんが来るのにそのあとZERO-ONEへいくことが決まっている選手を上げるわけにはいかないとなって、確かそのカードが流れたんですよね。

ZERO-ONEに対する義理を通したということですか。

田中 うーん、義理というよりもタイミングですよね。単純に先だったということです。条件的にも満足できたし…まあ、それも最初の1年目までだったんですけど。

FMWとは違う雰囲気、人間の中で水は合いましたか。

田中 お酒が飲めないからFMWの時も寮を出たあとはプライベートでどこかへ一緒に遊びにいったりとはなかったんですけど、ZERO-ONEになってからもそれは同じで。ZERO-ONEのみんなは東京に住んでいて、僕は埼玉だったというのもあって。たまに夜中の1時ぐらいに呼び出されて合流するというようなことはありました。

誰に呼び出されるんですか。

田中 えー、ジェット(若鷹ジェット信介)ですね。それは大谷(晋二郎)さんに「弾丸タイムをやれ」と言われて電話してくるんですけど。

橋本真也さんはそういうところがなかったんですか。

田中 橋本さんはなかったです。入団する前は游玄亭に2、3回連れていってもらって。個室ですよ。たまたま会計の時に金額を見たら十何万ってあるんです。やっぱりメジャーの人は違うなあって思いました。ZERO-ONEの中でも橋本さんは別格でしたよね。でも、あの頃は大谷さんも橋本さんと同じぐらい豪快でした。

それが新日本イズムなんですかね。

田中 大谷さんは、もらったお金を全部使う派だったと思います。

完全に昭和のプロレスラーですよ。

田中 昭和ですよ。弾丸タイムだって呼び出されて六本木とかにいくと若手もけっこういて、全部出してくれるんです。橋本さんの親分肌なところを大谷さんも見ているから、同じようにしていたんでしょうね。そういうところでメジャーとインディーの差を実感するという。

居心地のいいZERO1という場を
失いたくないのがモチベーション

入団してすぐZERO-ONEに愛着を持てましたか。

田中 どうだったかなあ…当たり前ですけど入団した時点でその団体に骨を埋める気持ちではいました。ただ、最初はFMWと比べて愛着が持てたかというと、そこは違ったかな。FMWは好きで入ったところだったのに対し、ZERO-ONEは人間関係がわかった上である意味安定を求めて選んだところでしたから。それが変わったのは橋本さんが抜けて大谷さんが社長になってからですね。僕らが橋本さんを追い出したと思っている人も中にはいると思いますけど、でもそれはまったく違う話であって、僕らさえどうだったかをわかっていればいいことで。残された者たちでやっていこうとなった時に同じ年の人が社長をやるっていうのが、僕的には信じられないことだったんです。もしもそこで自分が社長をやってくれと言われたら絶対に断っていますよ。そんな責任を終える立場じゃないし。誰がやるのかという話し合いもしないうちに大谷さんがやるとなって…プロレスラーとしてすごいっていうのはそれまでの中でわかっていましたけど、社会人としてのすごさを見せらたというか。すごく儲かっている会社ならいいよなーってなるんでしょうけど、橋本さんという大きな存在が抜けてこれからどうなるかもわからない団体の社長になって責任を負う立場になるのは、尊敬しかなかったですよね。FMWの時に大仁田さんがやめたあと、荒井(昌一)さんが社長になったのも間近で見ていて、あの時も荒井さんってすごいなとなったので、同じ思いでした。

大谷晋二郎のためにとなったんですか。

田中 “ために”というよりは「この人とだったら一緒にやっていけるし、自分のプラスにもなるな」でしたね。それまでは橋本真也がいて、大谷晋二郎がいてだったのが、これからは自分ももっと頑張らなきゃいけないとなって、すごく愛着が湧いてきたんです。

ZERO-ONE、ZERO1-MAX、そしてZERO1での活動と並行して、田中選手は常に他団体のリングでも実績を残してきました。その2つの位置づけはどんなものになるでしょうか。

田中 リングに上がる気持ちはそれほど変わりないですけど、新日本に出ていた頃は僕の試合をあまり見ていない人が見るだろうから、インパクトを与えてやろうとか、ZERO1に引っ張ってやろうという気持ちでやっていました。

刺激性でいったら他団体の方が強いですよね。

田中 新日本で、普段は浴びない罵声を浴びた時は楽しいと思えましたよね。でも、刺激を味わえたからといってもモチベーションの高さはZERO1でも変わりなかったです。そこでは存続させたいというのが一番のモチベーションで。橋本さんがやめてからのZERO1は、僕個人はインディーだと思っていましたから。インディーの中に大谷さん、高岩(竜一)さん、大森(隆男)さんのようなメジャーの選手がいるという感覚。それを続けていくこと…ZERO1という場を失いたくないという思いでやっていました。

田中選手であれば他団体でも通用する腕を持ちながら、それでもZERO1を存続させたいという思いが強かった。その根源には何があるのでしょうか。

田中 居心地がいいんです。いろんな人がやめていく中でも横山(佳和)のように残る人間もいるし、後輩たちも入ってくる。そういう選手たちのためにもこのリングは残していかなきゃいけないし、何よりも大谷晋二郎や(オッキー)沖田さんのような初期の頃から一度もやめることなくこの団体にいる人間がいるというのは、おっきいですよね。

オッキーだけに。

田中 僕より先にいたのはその2人しかいないんで。僕が一番古い人間になっていたら、たぶんやめていますね。人が変われば同じ“ゼロワン”でもガラッと変わって、若い人が多くなった分、控室の雰囲気もいいですし。それが集客や収益につながっていないというのもまだありますけど、ゆくゆくはいい方向にいくという空気はあります。川崎にあった道場が栃木に移りましたけど、僕が日焼けしにいくといつでもみんなで合同練習やっていますからね。

日焼けのためだけに栃木までいっているんですか。

田中 都内じゃダメなんです。都会を離れて生き抜き込みなので。みんながガッチリ練習している時に別の部屋で日焼けだけするという。そこで僕が入ってあれやれこれやれ言ったら空気を壊しちゃうんで、若い人たちだけでいい雰囲気でやって、それが試合にも表れている。北村(彰基)や太嘉文や(佐藤)嗣崇がプロレス総合学院で基礎を習っているから、教えることもできるんで。

他団体からの誘いはあったけど…
その選択が間違ったとは思わない

大谷体制後、他団体から「ウチに来ないか?」と誘われたことはあったんですか。

田中 何回かあります。

そこで「いきます」とはならなかったということですよね。

田中 いっていたらよかったのにと言われると思うんですけど僕はそう思わないし、この選択が間違ったとは一度も思ったことがないです。それは今、家族を養っていけるだけのものは保証されているからであって、当時は独り身でしたけどそれなりに生活もできたので愛着があるところから離れることは考えられないですよね。現実的にどうやってプロレスで生きていけばいいのかというような状況だったら、生きていくための選択をしていたでしょうけど、そうならない限りは動く必要はない。そこは今でも後悔していないです。ただ一つ…あの時、FMWをやめていなかったらFMWはどうなっていたんだろうと考えることはあります。それは後悔と違うんですけど、やめていなかったらFMWが潰れたあとキンクロ(金村キンタロー&黒田哲広)と行動していたかな、もしかしたら江崎さんもケガしていなかったのかなって、ふと思う時があります。それぐらいですね、もしもあの時というのを考えるのは。

そのZERO1の20周年記念として昨年開催されるはずだった両国国技館大会が1年延期される形で21周年も合わせて開催されます。2年越しの思いがあると思われます。

田中 1年延びたらやっぱり環境は変わりますよね。その間にいなくなった選手もいるし、僕は去年の時点ではCIMA選手との対戦が組まれていた。コロナに左右されてプロレス界全体が困っているけど、それを乗り切らないと今後のZERO1はない。でも、ZERO1の力だけでは無理なので他力本願ではないですけど…ZERO1って、旗揚げ当初からいろんな団体やフリーの選手の協力を得て成功させていったじゃないですか。

伝説の旗揚げ戦のカードも橋本真也&永田裕志vs三沢光晴&秋山準と、新日本やノアの協力があったものでした。

田中 僕は他団体に協力していただくことを恥ずかしいとは思っていないんで。後楽園のメインで阿部(史典=BASARA)と今成(夢人=ガンバレ☆プロレス)がやってもZERO1に愛着があったり、ZERO1のファンがその選手に愛着を持てたら、ZERO1所属の選手でなくてもいいと思っているんで。

協力してもらえるのは団体として信用があるからです。

田中 大谷さんの人柄もそうだろうし、僕もいろんな団体に上がらせてもらう中で築いてきたものだと思っているし。それが、この団体を20年以上続けてきたことが間違いではなかったという答えなんだと思います。あとは、ウチの若手のほとんどが、そういう大きな会場でやった経験がないので、彼らにとっては大チャンスですよね。大会場の隅々にまで伝わるような試合というのがどういうものなのかを経験することになる。普段通りのファイトをやるとしても、届かせるにはどうするべきかを考えるだけでも実になるし。次回のZERO1両国は10年先になるかもしれない。だからこそ悔いの残らない闘いをしてほしいですよね。僕自身は、そういう若い子と比べたら先も残り少ないので、両国の先を創っていくのは彼ら。リングに上がれば自分が全部持っていくという確信はありますけど、10年先と言わず毎年1回は両国国技館でできるような団体にしていくのは、若い世代がやらなければならないことですから。

一プレイヤーとしてはあらゆることを達成してきて、そろそろラストランに入りかけている年代になりました。

田中 ラストランが長いんですよねえ。落ちぶれていったらそこまでと思っているんですけど、今一番怖いのはケガですよね。長期間練習できなくなったら、再開できた時点でかなり落ちぶれていると思うような年齢に入っている。田中将斗が常にベストコンディションと思われているのがいいプレッシャーになってケガをしないための緊張感を保てるし、今日はシンドいなとなっても「田中はベストコンディション」というイメージで見られている限りはそれを崩すわけにはいかないって踏ん張れる。

ハヤブサイズムですね。達成したくてまだ達成していないことってあるんですか。

田中 どのベルトが一番すごいというのはないのかもしれないですけど、上がっているリングのシングルのベルトは獲りたいですよね。今はノアさんに上がっている以上はそこのベルトを獲らないと。何か目標がないと上がっている意味がないんで、巻いてみたいと思います。

これほど数々のベルトを巻いていても、そこはモチベーションとして持てるんですね。

田中 巻いているそのものがすごい人(取材時点でGHCヘビー級王者が藤田和之、GHCナショナル王者が船木誠勝)ですから、その人に勝ったらその人よりもすごいとなるじゃないですか。