鈴木健.txt/場外乱闘 番外編

スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txt/場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2017年2月号には、第39回ゲストとしてスターダムで“天空の逸女”の異名をほしいままにする紫雷イオ選手が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!

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紫雷イオ(スターダム)x鈴木健.txt 場外乱闘 番外編

デビューから10年、あれから5年――
逸女が逸女となり得た理由がそこに在る

まだ思い出すと目に涙が浮かんできちゃうぐらいに残っています。
それでも「私はプロレスをやってしあわせです」って言えるんです

紫雷イオ(スターダム)

©スターダム/FIGHTING TV サムライ/カメラマン:中原義史

デビュー戦の映像が収録されたら
全部のDVDを叩き割って回ります

―5年前のデビュー5周年大会は新木場1stRINGで、今回の10周年は後楽園ホールとこの5年間で自身のグレードを上げてきたことが表れていますが、デビューした頃は10年後のことなど考えもしなかったのではないですか。

イオ そうですよね。今は、デビュー当初のことを知っている皆さんの方が少ないでしょう。あのダメだった紫雷イオが10年間でいかに変われたか。その集大成を見せたいと思って10周年大会はやらせていただくんです。

―漠然と頭の中に描いていたものも、10年前はなかったんですか。

イオ それさえもなかったどころか、自分が10年やるなんていうことも考えなかったです。本当に、習い事へ通うかのような軽い気持ちでこの業界に入ってしまったので、自分が将来的にどうなるかなんて考える対象ではなかったんです、プロレスが。

―当時、橋本友彦選手が主宰していた自主興行「MAKEHEN」でやってみないかと誘われたんですよね。

イオ 誘われたのは姉(紫雷美央=2015年引退)だったんです。見にいった時に誘われて、やろうと思うというのを聞いて自分も体を動かしたいと思って、一度もプロレスを見ていないのに新木場1stRINGへ練習にいって、気づいたら来月デビューするって決まっていました。たぶん「姉がやるから」という理由で入った人間はあとにも先にも自分だけでしょうね。それが10年やって、今ではプロレスがなければ生きていけないとまで思えるようになったわけですから。

―プロレスに足を踏み入れるまでは、就きたい職業はあったんですか。

イオ デザイン系の高校に通っていたんで、今でも自分のグッズのデザインをパソコンでやったりしているんで結果的に生かせてはいるんですけど、そういうものを高校卒業したらやれる会社に入って普通に務められたらいいなあぐらいにしか、思っていなかったです。

―習い事感覚で通ううち、実際に試合をやらなければならなくなるわけですよね。

イオ そこでやめなかったのは美央がいたからですよね。一人でやっていたら冗談じゃないってなっていたと思うんですけど、デビューしてからもどちらかがやめたいと言うと、もう一方がもうちょっとやってみようよと言って、それを繰り返すうちに続いていったという形です。とはいっても励まし合いのような前向きなものではなく、私はやめることを先延ばしにしている感じでした。

―プロレスを始める前からもそういう関係の姉妹だったんですか。

イオ プロレスを始める前は違いましたね。運動は私の方が器械体操をやっていたんですけど、それが小6からスポーツクラブ引退の中学までけっこう長く続けられたんです。その時も、自分がやると決めたことは途中でやめたくないという思いがあって。やめざるを得ない特別な理由があれば別だったんでしょうけど、それもなかったのでプロレスも続いていったんです。そこは私たちだけでなく、周りの大人の皆さんによる協力もあってのことでした。

―女子プロレス団体に入門してプロになるという正規のルートとは違う形で入ったからこその苦労もあったと思われます。

イオ この業界でやっていくための最低限の知識というものがなかったですからね。女子プロレスラーになりたい人間であれば、知っていて当然という諸先輩方の存在を知らないんだから皆さん、驚いたと思いますよ。受け答えも、この業界の人間ならば誰もがそうするものとは違うから「この子たち、なんなの!?」と思われてしまう。でも、女子の団体ではないですからそれを教えてくれる先輩もいなかった。自分たちが失礼を働いていることを理解できていないんですよ。ホントねえ、挨拶ひとつもできなくて…16歳そこそこでデビューしたものだから敬語の使い方もメチャクチャで。自分たちが悪いのに、ただただ理由もなく嫌われていると思い込んでいました。

―本当にその人のことを思っていなければ、間違っていても指摘はしないでしょうね。

イオ どうせやめるだろうと思われていたから、誰にも「あの言葉使いはよくないよ」って言ってもらえなかった。私たちの何が悪いの?としか受け取れなくて、プロレス界って冷たいんだって他人のせいにばかりしていましたね。だから、今だとプロレスを知らずに入って来る子の思いがわかった上で教えることができるんです。スターダムはプロレスが大好きで入ったという子がけっこう少ないんですけど、どんなところで悩んでいるのか、辛いと思っているかを自分が経験してきた分ね。

―ただでさえ辛い状況の中で、何をモチベーションとして続けられたんでしょう。

イオ ベルトを獲りたいとか、誰かに勝ちたいなんていう具体的な目標はまったくなかったですからね…うーん、そこは自分でも不思議なんですけど、強いてあげればやっぱりやめるのが嫌だったから。それはモチベーションと違うんでしょうけど、今振り返るとそこが一番大きかったと思います。本当の意味で、プロレスの中でやりたいことが持てるようになったのは紫雷姉妹のタッグを解散して、フリーとしてスターダムのリングに上がるようになったり、シングルプレイヤーとしての欲が出てきたりしてからでした。それまでは…ただ、いましたね。

―単に「出ろ」と言われて出ていたようなものだと。

イオ だから不思議すぎる。続ける理由や欲も当時はわからずにやっていたのに、今のようになれたのは運命だったとしか言いようがないですね。こうして時間が経ってから聞かれているんで理由らしきことを口にしていますけど、なんで入ったか、なんでやっていたのか、なんで続けたかの理由はじっさいのところないんでしょうね。

―ただ、現実としてそれまでやっていなかったことにもかかわらず練習を続けられたわけで。そこは体力を使う運動ですから、たとえば100回やるまでには何かしらで自分を支えなければ到達しないわけじゃないですか。

イオ でも、そのトレーニングも週に1回2時間を3カ月ですから。それでデビューしちゃったから…そうだ、思い出しました。デビューする前の段階だったらやめられたと思います。それが一度は人前に出てしまったことで、このままじゃやめられないなって思うようになりましたね。その際たるものがデビュー戦。これがもう、本当にヒドかった。

―姉さんからも聞いたことがあります。相当なシロモノだったとか。

イオ 今も私、デビュー戦の映像見ていないですから。映像として残っているらしいんですけど、あれだけは絶対に出したくない。

―10周年記念のDVDを発売するとなれば「貴重なデビュー戦映像」として収録されますよ。

イオ いやいやいや、それはさせません! もし収録されたら全部のDVDを叩き割って回ります。あれはこの世から抹殺したい。それぐらい恥ずかしかったし、消えたかったですから。本気で、このままやめて消えたいと思ったんですけど、これでやめたら「デビュー戦で変な試合をやって消えていった子」として永遠に残るわけじゃないですか。だったら、そのイメージだけでも挽回してからやめようと。

―あとになってあれは恥ずかしかったではなく、やった時点で恥ずかしいという認識は持てたんですね。

イオ はい。恥ずかしいのもそうだし、だからといって何が正解かもわからずにやったんです。教わってないですから、正しい形がどんなものなのかも知らずにやってみたら、あそこではお客さんに笑われて、あの場面では恥ずかしい動きをしてしまったと、そういうのしか残らなかった。もう、後悔だけです。なんであんなことをやったのか、あるいはできなかったのか、もっと言うとなんで教えてくれなかったのか、教わろうとしなかったのか。そういうのがグワーッと来て、一度ぐらいは後悔しない試合をしたいと思うようになりました…そうか、それがモチベーションになっていたんですね。

―話を聞いていると、何もかもがうまくいかなかったからこそ続けられたとも考えられます。

イオ ああ、そうですね。私はデビュー戦を「史上最低試合」って言っているんですけど、技術的に最低なクオリティーっていうのはほかにもあると思うんですけど、私たちのデビュー戦は心構えのクオリティーも最低でしたから、それより低いデビュー戦はないと思いますよ。

―自信を持って言えると。

イオ もしもデビュー戦でできていたら、もういいかってなっていたかもしれないですね。あとは、これから続けていけば最低でもデビュー戦以下の試合はないだろうから、変な度胸はついたかな。

スターダムで学んだ団体プロレス
全体を考えられるようになった

―デビュー戦のトラウマを払拭できたのはいつ頃の段階だったんですか。

イオ その後も波はありましたからね。二十歳ぐらい…始めて3、4年ぐらいかな、やっとプロレスが楽しいなと思えたのは。

―プロレスラーでありながら、プロレスが楽しいと思えるようになるまでそんなにかかったと。

イオ それまでは必死でしたもん。ただ一試合一試合でケガなく自分の持っているものを出し切るのでいっぱいいっぱいで、楽しむ余裕がなかったです。その時点でも何が正解なのか、自分のスタイルをどうすればいいのかもわからずにやっていました。

―姉さんと華名選手(現・ASUKA)によるユニット、トリプルテイルズの頃は?

イオ あの時点でも具体的なものは持っていなかったです。美央はお姉ちゃんだし、華名さんも先輩ですから、何をしていいかわからない中で2人の言う通りにしていただけだったと思います。手は引っ張ってもらえたけれど、それに対し必死についていくだけで。ただ、引っ張ってもらいながらも自分の足で歩いているわけで、そうするとならば自分の足だけで歩いてみたいと思うようになってきた。それでトリプルテイルズを抜けてフリーの道を選んだんです。あれがプロレスラーとして初めて持てた欲だったのかもしれない。姉妹タッグだけでなく、シングルプレイヤーとしてやれることをやっていきたいなと思いました。

―その中で、どうやって自分なりの正解を見いだしたんですか。

イオ 自分のスタイルを確立できたと思えたのは、3年前ぐらいの話ですよ。常にのびしろがある人間でいたいんで、基本的に全部の試合で満足はしていないんですけど、お客さんには満足していただいていると思えるようになったのは、ホントこの2年ぐらいで。赤いベルト(ワールド・オブ・スターダム王座)を巻いてメインイベントに何度も立たせてもらえるようになってからです。それも最初の頃は波があったんですけど。

―波というのは気持ち的なものですか。

イオ 具体的にあげると、スターダムは外国人選手が対戦相手というケースが比較的多いじゃないですか。そこが団体としての持ち味である一方、やはり日本人同士ほど密にやり合っていない分、つかみどころを見つけ出せなかったり、見る側も感情移入しづらい部分があったりしますよね。その点で面白いと思わせることができない難しさがあって、クオリティーに波ができてしまっていたんです。

―相手の持ち味を引き出した上で勝つのも技量ですからね。

イオ それはもう、場数を踏まなければ技術として身につかないですから。その数にいたっていなかった頃の波でした。だから10年をトータルで見ると、私はうまくいっていない時間の方が圧倒的に長いんですよ。最近になって見ていただいている皆さんはイメージ湧かないかもしれないですけど。

―逸女にもそういう時代があったことは知ってもらった方がいいですよ。

イオ だからプロレスを始めてからの10年は、人生においても本当に濃すぎる10年だったと言えます。それまでは学生で、人前で何かをやるような女じゃなかったのが、自分でやりたくて始めたわけでもないことによって悩んで、自分で考えてなんとか答えを導き出してきた。そんな私が心から自分の居場所はリング上にしかないと思えているんですから。

―プロレスによって紫雷イオという人間が変えられた。

イオ 変えられましたね。プロレスに出逢えてよかったし、プロレスラーになるべくしてなったんだと、今なら言えます。あんなに最初、やる気なかったのに。それは10年間の中でいろんな人と出逢い、いろんな人と試合をして、いろんな人に支えられて変われたんですよね。

―デビュー5周年記念自主興行を機にフリーからスターダムへ入団したので、ちょうどキャリアの半分がスターダムということになります。こちらの方はプロレスラー人生の中でどんな位置づけになりますか。

イオ スターダムに来てからは世界がガラッと変わりましたね。今まで自分がやってきたものとはまったく違うし、それまで5年間積み上げてきたものがあったからスターダムに居場所を見つけられたというのはあるかもしれないけど、その5年間やってきたことがほとんど通用しなかったんです。スターダムではどんなにキャリアがあろうと、年が上であっても下であってもリング上の実績でガラガラとポジションが変わり、どんどんダメなものは淘汰されてしまう。そんなところはフリーの時に一度も見たことがなくて、先輩は先輩、若手は若手というのがやっぱり強くて、それが女子プロレスというものだとずっと思っていたんです。今までやってきたものは何だったんだって思ったし、逆にここだったら自分が頑張りさえすればチャンスをもぎ獲れるんじゃないかって。シンドかったですけど、やり甲斐が持てたんです。

―5周年興行でスターダムに入団という形になったのですが、より厳しくなるのを承知でその道を選んだんですね。

イオ それまでは、待たないかぎりは自分に順番が回ってこなかったのが、スターダムなら待たずして自分のモチベーションで動いてチャンスをつかめるんで、絶対にその方がいいと。やっていけるだろうかという後ろ向きの考えはなかったですね。

―ということは、わけもわからず続けていた自分が、女子プロレスの中で上にいきたいと思えるようになっていたと。

イオ 上にいきたいからフリーになったわけで、それにはスターダムだったら実現しやすいし、なおかつマスコミさんの注目度もダントツじゃないですか。同じことをやっていても見る方の数がより多いっていうのは魅力でしたし、それがモチベーションにもつながりました。

―スターダムのプロレスで大きな影響を受けた選手となると…。

イオ それはやっぱり高橋七奈永さんであったり、南月たいようさんであったり。指導していただいた時に、ここは今までとは違うんだなと思いました。スターダムは華やかでかわいい子はそれをリング上で表現できるじゃないですか。最初はそれが面白いし、すごいことだなと思っていたんですけど、どんな見せ方をしても最後は七奈永さんがガッチリと締まった試合を見せて納得させる。ああ、団体のやる興行ってこういうものなんだなっていうのは、フリーの立場からはわからなかった部分でしたし、じっさい興行によっては第1試合からメインまで同じような試合が並んでいるっていうのも見てきましたからね。当時はそれになんの疑問も持っていなかったのが、スターダムで団体プロレスを見たのはカルチャーショックでした。

―フリーとして上がったのがほかの団体だったら、プロレス観も違うものになっていたかもしれません。

イオ そこはこうしてメインイベントに立たせてもらえるようになった時に、意識しましたよね。前半の試合はこうだったから、後半はこうしようとか全体を考えるようになりました。フリーの時は自分が何をやりたいかが一番に来ていましたけど、入団してからはお客さんが何を求めているかが一番になった。それはプロレスをする上で大きかったです。自分のことで手いっぱいだった人間が、そこまで考え方を変えられたという。「なんのために試合をするの?」って質問されるんですけど、そこは「お客さんのためです」としか答えようがない。

―それは建前ではなく本心なんですね。

イオ 本心です。そう考えられるようになった経験をしてきたんで、客観的に見てもウソではないんですよね。

一度は死んだ自分を受け入れてくれた
プロレスを最高なものにする恩返し

―経験というのは…スターダムに入団し、さあこれからというタイミングで不本意な事件に巻き込まれてしまいました(2012年5月、大麻取締法違反容疑で拘留され後日、釈放。不起訴処分が決定したあと、第三者が貶めるために謀ったことであることを公表する)。なぜこのタイミングで…と、あの時は絶望したと思われます。

イオ あの件は…まずは、何も知らないところで巻き込まれた時点で「絶対やっていないんだ」という思いを強く持つことでした。もちろん悔しかったです。悔しかったですけど、自分の中の真実でしか自分を支えることはできなかったですから。でも…あとあとになって、名前が出たことでマイナスのイメージによって団体に迷惑をかけてしまったという事実だけが残ってしまった。そこに関しての申し訳ない気持ちで反省しなければと思いました。

―やっていないのに反省しなければならないなんて…と思いませんでしたか。

イオ それは思いもしました。でも、迷惑をかけたのも事実ですから。やってないから関係ありませんとは言えなかったです。悔しかったですけど…涙を流して謝るしかなかった。

―会見を開き、黒い服を着て泣きながら謝罪の言葉を述べました。あの涙は悔しさによるものだったんですね。

イオ 悔しさと申し訳なさの両方でした。

―あの時、ようやくやり甲斐を見いだせたプロレスを続けられないという恐怖がとてつもなかったのではと思います。

イオ それはありましたね。最初は、無実であることが証明されればできると思っていたんです。でも、表に出てきて身の周りの状況や世間の反応を初めて見た時に、こんなにも事が大きくなっていたのかとガク然としたんです。

―拘留中は外がどうなっているかわからないですからね。

イオ そこで打ちのめされましたね。かけた迷惑の大きさを痛感して、これはたとえ自分が無実だとしても、もう元には戻れないなと覚悟しました。

―悪いことはしていない=プロレスがやれるではなかった。

イオ 罪に対する責任はなくても、騒がせてしまったことに対する責任はあるんだと。その責任を取るために…これはクビになると思いました。

―……。

イオ それを承知で(ロッシー)小川社長のところへ謝りにいったんです。そこでお騒がせしたこと、ご迷惑をおかけしたことをお詫びしたあと「絶対にやっていないし、本当はプロレスを続けたいです。でも、これほどまでにお騒がせしてしまったのですから、プロレスをやめる覚悟はできています」と伝えました。

―会社として事を収めるのだったら、それを聞いた時に「本人もその覚悟でいるのであれば」と切るところです。

イオ でも…小川社長は「やってないんでしょ? それなら復帰すればいいじゃない」って言ってくれたんです。それを聞いた時に、これはもう命を懸けてプロレスをやるしかないなと思いました。だってプロレスラー・紫雷イオは一回死んだようなものなんですから。あの事件でもうこの業界から消えてもおかしくなかったのに、小川さんや帰ってくることを認めてくれた仲間、そして受け入れてくれたファンの皆さんによってこうしてリングに上がり続けることができたんですから。そういう人たちのために自分が全力でやらなければバカ野郎だなって。そこからはプロレスに対する取り組み方がガラッと変わりましたね。いつでもやめていいやと思っていた人間が、命を懸けてこれを続けて最高なものにしていかなければならないんだって変わったんです。

―先ほどの「ファンのためにやっている」という言葉が、伊達や酔狂でないことは伝わったと思います。デビュー戦の内容にしてもあの件にしても、劇的なほどのマイナスをプラスに持っていっている紫雷イオという人間の強さを感じます。

イオ 責任を取るといっても正直、世間の目は冷たかったですからあそこはやめた方がラクだったんです。プロレスから離れる怖さとは裏腹に、このまま消えてしまったらこんなにも辛い思いをしなくて済むという考えも浮かんできてしまうんですね。とてもじゃないけど表を歩くこともできないんで、何日も家に閉じこもっているような状況で、リングに上がって人前に立つのがどういうことなのか…そちらの恐怖もあったんです。だけど、復帰させてくれるという人がいるからには…やめなきゃいけないとなった時に、またグワーッと悔しさが湧き出てきたんです。ここでやめたらデビュー戦と一緒で、悪いイメージのまま後味の悪さしか残らない。それを絶対にいいイメージに変えてやるんだっていう意地でしたね。

―ニュースとして世の中に出回ったことで、紫雷イオというプロレスラーを知らない層にも悪いイメージは広まってしまっていました。それを変えてやろうと。

イオ それをいいイメージにひっくり返すのはプロレスでしかできないですから。私がリングを降りて別のところでどんなに立派なことをやっても、プロレスラー・紫雷イオのイメージはやめて消えたところから変わらない。それならプロレスで塗り替えるしかないんだって。普通だったらどんなに自分がそうしたくてもやらせてもらえないのに、私には受け入れてくれるみんながいた。それは本当に大きかったです。あのう、先ほど強いって言っていただいたんですけど…そんなことなくて。復帰に向けて、皆さんが私のために悪いことはやっていないというのを伝えようと取材してくださったじゃないですか。それは本当にありがたかったんですけど、そのたびにあの辛さを思い起こして言葉にしなければならなかったのは、自分自身で傷口に塩を塗る作業をやっているようなものでした。今でもこうして聞いていただいて答えていますけど、まだ思い出すと目に涙が浮かんできちゃうぐらいに残っています。ただ…それでもね、そんな思いがいまだにあっても「今、私はプロレスをやっていてしあわせです」って自信を持って言えるんです。

―さかのぼれば、この業界に入りさえしなければあんな目に遭うこともなかったかもしれないのに、プロレスを恨んでいないんですね。

イオ はい! 恨むなんて…私はプロレスによって救われたんです。だから、私がプロレスを救いたいとあの時、思いました。一度は完全に終わったプロレス人生なんだから、もうそれからはある意味“儲けもん”じゃないですか。それなら自分よりもプロレスそのもののために動いていくことが恩返しになるんだって。

―そうした姿勢が数々のベルト奪取につながり、プロレス大賞の女子プロレス大賞も2年連続受賞と、ドン底状態の頃を思えば人生の逆転劇のように輝かしい実績を残すまでになりました。そのことで自分自身が報われたという実感はありますか。

イオ あります。やればやった分だけの見てくださる人がいる…それがプロレスのありがたさ、良さだと思います。賞がほしくてやってきたわけではないですけど、恩返しのためには1番になりたいとは思いましたね。命懸けてんのにテッペンになれないなんて、カッコ悪くないですか。誰よりも命懸けて、誰よりも高いところにいて、誰よりも高いところにスターダムを持っていきたいって。それは今でも変わらないです。

―恩返しパワー。

イオ 私、15周年を迎えられるかどうかってわからないんです。正直、厳しいと思っています。それはどういうことかというと、命を懸けられなくなったらもうプロレスはやらないという思いです。じゃあ、あと5年経っても今以上の勢いで命を燃やせるかといったらわからない。今が本当に全力なんで。いつかは自分にもリングを離れる日が来るでしょう。その時に今、自分がこうして賞をいただいたり、エースだと認めてもらったりしたことでよかったじゃん、私が一番になったよと勝手に満足してリングを去るなんていうのは無責任にしか思えない。自分がたくさんの方に支えられて、一度は死んだ人生を取り戻せたことで素晴らしいものを培ってこられたのであれば、それを別の人間に伝えなきゃいけない、託さなきゃいけない。もらった分、もしくはそれ以上のいいレガシーを残してリングを去らなければと思っているんで。

―わかりました。最初にこの10年の集大成にしたいと言っていましたが、こんなにも濃い10年を一度の興行で体現するのは大変かもしれません。

イオ アハハハ、そうですよねえ。濃いし、今の私は脂がノリノリのノリまくりなので、その脂の乗り切った紫雷イオをみんなに楽しんでもらえたら、集大成っていうものになるんじゃないですか。

―では、11年目に向けて描いていることがありましたら聞かせてください。

イオ 日本一から世界一になりたいです。メキシコ、アメリカ、ヨーロッパといろんな国にいかせていただくたびに、プロレスに国境はないという大きな実感があって。国境がないということは、自分がプロレスをやるにあたっての枠は日本ではなく世界まで広げてみていいんだなって思いました。考えてみてください、まったくプロレスを見ていなかった女が世界の規模でテッペンに立ってみたいっていう夢を語っているんですから。本当、夢ありまくりですよ、プロレスは。

―イオ選手の頭の中にある“世界一”とはどんな情景ですか。

イオ そこはまだ想像もできていないですね。これから足を踏み入れることでだんだん見えてくるのは、今まで通りです。5年前も今の景色を想像していたかって言われたら、していなかったし。そういう中でも、やらないことで後悔だけはしたくない。今までも足を踏み入れたら楽しいことばかりや嬉しいことばかりでなかったんだから、これからもそうなんですよ。でも、それを恐れて何がプロレスへの恩返しだ、何が最高なものにするだってなるじゃないですか。