鈴木健.txt/場外乱闘 番外編

スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txtの場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2022年6月号では、第97回ゲストとして「キム・ドク」のリングネームでも知られる昭和のプロレスラー・タイガー戸口選手が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!

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※鈴木健.txt氏 twitter:@yaroutxt facebook:facebook.com/Kensuzukitxt

タイガー戸口x鈴木健.txt 場外乱闘 番外編

全日本のエースは
鶴田でよかったんだよ

タイガー戸口

グリーンのタイツはドル札の色
ダイナミックだったアメリカ生活

53年9ヵ月と、半世紀以上もの長いプロレスラー人生にピリオドを打つ日が近づいてきた現在の心境をお聞かせください。

戸口 やめる潮時がないまま続けてきた中で、ジャンボ鶴田の追善興行へのオファーが来た。最初は「わかりました」とだけ答えたんだけど、よくよく考えたら鶴田の二十三回忌だったら、それで引退するのがいいと思って、引退試合をやらせてくださいって言ったら「ええっ、引退するんですか!?」ってプロモーター(主催者)に驚かれたんだけど。

鶴田さんの追善興行ということが大きかったんですね。

戸口 自伝(徳間書店・刊『虎の回顧録 昭和プロレス暗黒秘史』)には75歳でシューズを脱ぐと書いたけど、本当は40歳でやめるつもりだった。でも、その時はまだ鶴田も現役でやっていたんで続けた。痛い思いなんてしたくないのに、そのあともズルズルと34年も続いちゃった。そもそも日本にも帰ってくる気なんてなくて、アメリカで稼いで楽な生活ができていたからずっといたかったんだけど。

鶴田さんと初めて会ったのもアメリカ(1973年)でした。

戸口 俺がフリッツ(フォン・エリック)のところにいた頃。テキサスのサンアントニオで、全日本プロレスに入団したばかりの鶴田がアメリカに来てデビューしたばかりだった。そのあとに会ったのは、もう日本に帰ってからになる。その頃は自分が日本でやるなんて考えたこともなかった。(ジャイアント)馬場さんがノースカロライナに来た時、トップを張っていた俺がグリーンズボロの会場を満員にしているのを見て日本へ帰そうとドリー・ファンクJrを通じて言ってきた。その時も俺はハッキリ「いや、帰らない。日本でアメリカと同じぐらい稼げるはずがないんだから。こっちは家族を食わせていかなきゃいけないし、生活が賭かってるんだ!」って断った。日本で週に1万ドル(当時のレートで300万円)なんて払えるわけがないじゃない。俺はそれぐらい稼いでいたからね。でも、大木金太郎さんからもタッグパートナーになってほしいって言われたから、その義理を立てるために帰ったんですよ。

大木さんに言われなかったら…。

戸口 たとえ馬場さんが言うことでも帰らなかった。でも、そこはしょうがない。大木さんのお父さんと、ウチの親父の友達のお父さんが友達だったんで、それでしょっちゅう大木さんがそこの家に遊びに来ていたから、小さい頃に何度も会っていたんですよ。

子どもの頃の自分を知っている人にはNOと言えないですよね。

戸口 そうでしょ。もしもそこで日本へいくことを突っぱねていたら全然違う人生でしたよ。今頃、アメリカでいい家に住んでいるよ。これまでも家は3軒買ったし、車だって32台買ったんだから。

車屋さんを営めますよ。

戸口 一年に2台買ったこともあった。普通の乗用車とトランザムのターボ。女房を乗せて夜中に160km出したらあれ、飛行機と一緒だよ。何百キロも真っすぐの道を、空飛ぶように走った。サーキットでは3日で1600km運転したこともあったし。アメリカは、車は消耗品だから。ニューヨークでも、片方のドアが取れていても平気で乗って走っているやつがいたし。田舎にいくともっとそんな感じ。

そういうダイナミックな生活が性に合っていたんですね。

戸口 そうだったね。こっち(日本)に来た時にドルと円の違いをいちいち計算するのが面倒臭くて。普通は日本人がアメリカにいったら「10ドルって日本でいうと何円になるのかな」って計算するじゃない。でも俺は逆で、1000円っていうのは何ドルになるんだ?って計算しながら買うのが煩わしかった。日本の方が物価は高かったよね。あとは日本だと着るものがない。当時はサカゼンなんてなかったから、サイズが大きいのは伊勢丹の別館にしか売っていなかった。だから身に着けているものは全部伊勢丹で買ったものだった。それはどういうことかというと、色が選べないのよ。着たい色があっても、そこになかったらないんだから。

色といえば、戸口さんは緑色のショートタイツを履いていましたよね。

戸口 なんでだかわかる? アメリカのゼニは何色よ? ドル札はグリーンじゃない。

あれはドル紙幣の色だったんですか! そこまでアメリカに愛着がありながら、全日本へ上がるようになったんですね。鶴田さんと2人で馬場さんに呼ばれ「これからの全日本はおまえたちが背負っていくんだぞ」と言われたとか。プレイヤーとして団体のエースになりたいという願望はあったんでしょうか。

戸口 ない! エースは鶴田でいいんですよ。リング上では闘い合う者同士だったから、巡業中に話したりはしなかったけど(仲は)悪くはなかった。誕生パーティーにも誘ったら来てくれたし。俺がアメリカへ帰る時にはブーツを買ってきてくれって頼まれたりね。あいつはちゃんと払ったから。

それは払わないとまずいですよ。

戸口 払わないやつもいるんだよ。

1978年9月13日、愛知県体育館で鶴田さんが保持するUNヘビー級王座に挑戦し、1-1で60分ドローになったあと5分間延長戦をおこない65分闘っても勝負がつかなかった試合が今なお語り継がれています。やはりあれが戸口さんにとって生涯のベストバウトになりますか。

戸口 そうだね。あれしかない…うん、ないね。大木さんとインタータッグを獲った試合もだけど、シングルは鶴田とのUN戦だね。強いてもう一つあげるなら…それはテレビでやってないんだけど、ドリーとインターナショナル(王座争奪トーナメント準々決勝)やった試合が周りから「すごい試合だったな」って言われたのがあったな。

全日本を離れて新日本へ上がるようになった時、鶴田さんとは話をしたんですか。

戸口 話すも何も、鶴田は知っていたから。新間(寿)さんは俺んところに電話したと思ったんだけど、つないだホテルのやつが間違えて鶴田の部屋につないじゃった。それで俺が新日本にいく話が筒抜けになって、すぐ馬場さんに報告したらしい。「戸口、おまえは新日本にいくのか?」って聞かれたけど、その時はシラを切ったよ。そして契約が切れるまではちゃんと全日本に出た。そのあと鶴田にもやめるって伝えたけど、あいつは知っているわけだから特に止めることもなかったな。

鶴田戦でキウイロールを使った理由。
日本へ帰るたびに違う技を持ってきた

新日本に移籍した以後、鶴田さんと会ったことは?

戸口 ない。だから、全日本をやめた時が最後。鶴田が中央大学レスリング部時代の先輩で中田(茂男)さんっていう人がいるんだけど、その人は俺と鶴田を池上本門寺の豆まきとかに招待してくれていた人で、2人で葬儀にいこうと話していたら終わっていて。だから山梨の墓までいって手を合わせた。長野にいく用があった時も途中で寄ったしね。もし彼が生きていたら、俺は鶴田と試合をしてプロレスをやめたかった。

全日本をやめたあとも戸口さんは選手名鑑のライバルの欄は「ジャンボ鶴田」と答えていました。

戸口 だって鶴田しか“歯車”が合うやついないんだもん。若い頃にカール・ゴッチさんからいろいろ習って、アメリカでプロレスを学んで、それがアマレスの下地があった鶴田とやることでうまく出せた。あいつもアメリカでドリーとテリー・ファンクのところにいったのがよかったんだよ。アマリロってアマレスやっていたやつばかり集まったじゃない。テッド・デビアス、ディック・マードック、ボブ・バックランド…レスリングをやっていた連中の頭があそこでプロレスに切り替えられる。

アメリカのプロレス文化という共通項があったからこそ鶴田さんと響き合ったんでしょうね。

戸口 アメリカにも巧いと思った選手はいるんだよ。レイ・スティーブンスは最高だったし、ニック・ボックウィンクル、パット・パターソン…この3人だな。それは見て巧いと思ったレスラーであって、対戦相手としては鶴田。

みなAWAの選手ですね。

戸口 みんなレスリングをやるからね。ニューヨークはコレ(殴るポーズ)だから。俺がWWF(現・WWE)合わなかったのはそういうことですよ。今、ニューヨークでやっていることは全部俺がやったこと。竹刀もそうだよ、俺がホーガンとやっている時に使っていたのを今でもやるじゃない。でも、あいつらは使い方を知らないでやってんだよ。

竹刀の使い方?

戸口 あるんだよ。プロレスはケガさせるためにやるんじゃないだろ。もちろん、使う時は思い切りやるけど、それでも大ケガをさせちゃいけない。そうさせない使い方っていうのがある。それを教えてくれのがカブキさん。ツームストーン(パイルドライバー)だって、ドイツにいった時に使っているやつを見て俺がニューヨークでやり始めたら、そのあとアンダーテイカーが使うようになっただろ。あいつ、マークっていうんだけど(本名マーク・キャラウェイ)、ノースカロライナでは俺の下だったんだから。それがニューヨークに来て、あのデブ…なんていったっけ?

ポール・ベアラーですか?

戸口 そうそう。あれは本当の葬儀屋だからそういうの(アイテム)を持ってこられたし、俺が使っていた技をマークにやらせたんだよ。あのまま俺がニューヨークにいたら「使うな!」って言っていたかもな、フッフフ。

アンダーテイカーは生まれなかったかもしれません。戸口さんの技といえば、鶴田さんとの伝説のUNヘビー級戦で見せたキウイロールがあります。あれはどうやって開発したんですか。アベ・ヤコブ(レッド・ピンパネール)の得意技だったというのは聞いたことがあるのですが。

戸口 そのアベ・ヤコブが使っているのを見て覚えた。あのね、プロレスってどんな技を使ってもいいわけよ。ただ、同じことをするな!って。わかる? 俺がツームストーンを使ったら、それを使うやつはちょっと変えて使えって。俺はアメリカと日本を行き来して、こっちに帰ってくるたびに違う技を持って帰ってきたのよ。ショルダーブリーカーを持ってきたり、レッグロックでもキウイロールとはまた違う技を持ち帰ったり。売れようとしたら、人が見ていない技をやらないと関心持たれないじゃない。危ない技なんてやらなくたっていいんだよ。使い方一つでちゃんと成り立つんだから。鶴田との試合も大技バンバン出さなくてもやれたじゃない。かんぬき(スープレックス)も誰もやっていなかったでしょ? 俺は柔道をやっていて背筋が強かったからあれができた。でも、出すのは一発のみ。わかるでしょ。

現在の日本のプロレスシーンでいいレスラーだな、面白い選手だなと思う人はいますか。

戸口 日本の選手で俺が気に入ったと思えるやつはいない。中邑(真輔)? 金稼いでんじゃないの? あのゾンビみたいな動きがニューヨークのやり方なんだろうな。

戸口さんと同じ修徳高校出身でWWEにいったKENTA選手は…。

戸口 ああ、会ったことないんだよ。あいつは来るけどな…ハマタツ? ハナタツ?

ヨシタツ選手のことですか。

戸口 ヨシタツか。あいつはよく来るからこうしろって言うと「ありがとうございます」って。あのさ、WWEっていったって俺らの頃とは違うじゃない。一つ自慢できるのは、日本のレスラーで本当の意味で世界一周したのは俺しかいない。アメリカ、ヨーロッパはもちろんだしアジア、中東…クェート、ドバイ、アブダビ、オマーン、カタール。エジプトにもいったし。俺は酒がダメな国でも飲んでいたからね。なんでだかわかる? 宗教上ダメだといって、税関で取り上げられるじゃない。でも、税関のやつと仲良くなると家に来いって誘われるんだよ。それで飲めって出されたのが、俺らが持ってきた酒だよ。もう、漫画だよな。どの国にいっても郷に入れば郷に従えじゃないけど、そこのものを食っとけばやっていけるんだよ。それを米がない、味噌がない、しょう油がないなんて言っていたらどこにもいけないよ。エジプトにもウェンディーズがあったんだけど、パンはパサパサで肉は硬すぎてハンバーガーとしてまとまっていないようなものなんだから。それでも苦ではなかったからね。

世界中をまわって一番の国は?

戸口 それだけいろんな国にいっても、一番はアメリカだな。

やはりアメリカが肌に合っているんですね。プロレスラーの中には生涯現役を貫く選手もいます。グレート小鹿さんのように80歳になっても…。

戸口 (話を遮り)あの人は現役最年長って言っているけど違うぞ。一度引退しているんだから。53年続けてはいないから調べてみろ。

厳密には25年+27年ですね。

戸口 俺が引退したら、みっちゃん(百田光雄)が一番長い。

藤波辰爾さんより半年早いデビューです。

戸口 みっちゃんは俺と同じ年だからな。

どのようなラストマッチにしたいですか。

戸口 カードも任せてあるし、どうなるかは絡む連中の“頭”次第。あまりアレだったら引退試合で「引退しない!」って言ってやろうかな。まあ、これからやることがいっぱいあるし、俺の中では腹は決まっていますよ。会社を2つ創ろうと思っているし。そのうちの一つはプロレスの会社。

プロレスの会社って、団体ということですか。

戸口 そう。

そんな大きなことをしれっと!

戸口 金を出してくれる人がいるんで創るんだけど、今のレスラーは使わないよ。テストして、頭が切れていなかったら使わない。会社でビザ取って、日本でもアメリカでもできるようにするから…それ、いいでしょ? 俺は力道山先生が創ったものを壊したくないんだよ。ただそれだけ。俺は力道山という人に、親父に連れられて10歳の時に人形町の道場で会っているからね。その時、一番高いお札は千円札だったんだけど、その束がボストンバッグ4つか5つ分パンパンに入っているのを見たんだよ。この風景が子どもの頃のあこがれになって、アメリカで稼ぎまくることで夢をかなえていたんだと思う。だからプロレスラーを引退して事業をやる俺は、ガキの頃のまんまってことだな、ガッハッハッ!