鈴木健.txt/場外乱闘 番外編

スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txtの場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2022年7月号では、第98回ゲストとしてみちのくプロレス・フジタ“Jr”ハヤト選手が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!

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フジタ“Jr”ハヤト(みちのくプロレス)x鈴木健.txt 場外乱闘 番外編

フジタ“Jr”ハヤト
1895日分の真実

フジタ“Jr”ハヤト(みちのくプロレス)

痛みは常にあるんです。ただ、
痛いってわかるこの感覚が喜び

脊髄腫瘍髄内腫瘍上衣腫の手術からプロレス復帰に向けて、医師よりGOサインが出たのは、どれぐらいの段階だったんですか。

ハヤト 今年の3月終わりぐらいですね。ここまで動けるようになってきたし、今年最初で最後でもいいから一度試合OKしてくれって、自分から言いました。最後に再発してから8年経過しないと完治とされないんですけど、さすがにそこまでは待てない。その時点で1年は再発していなかったので、お願いしますと頼んで検査をしてもらって。4月半ばにすべての検査が終わって、腫瘍もなくいい感じで保っているし、数値的にも大丈夫で、これだったら1試合はいけるでしょうと。あとはハヤトのタイミングでここと決めたらメニューを決めるからと言われて、その頃にみちのくへ日程を聞いてこの日って決めた形ですね。

左ヒザのケガから数えると5年間続いた闘いでした。

ハヤト その間、定期的に手術を受けていたんですけど、そのたびに車イス生活になっては半年ぐらいで立てるようになるというのを繰り返していた中で、最後の腫瘍の切除手術が終わったのが2020年で、そこからまた7ヵ月間は車イスが続いて、杖を使えば…というところまで来られた。その間、リハビリを続けて体が疲れれば休んでとなるんですけど、自分ではまだやりたいと言っていました。ガッチリと運動ができるようになったのは今年に入ってからですね。ただ、左ヒザから下の感覚があまりないんで、左脚を軸にしての蹴りを出すのがムチャクチャ怖い。ガチガチに固めれば1発、2発ぐらいは蹴られるところまではきているんですけど、まずは軸脚を変えて構えを反対にすることからです。一発ずつの蹴りなら出せても、動いているうちに意識することなく元の構えに戻ってしまうのがまずいんでホント、立ち技をやり始めた人たちがやるようなことを今やっている感じですね。

ただ、それでも立てなかった時の状態を思えばとんでもなく回復しているということですよね。

ハヤト そうですね…まあ、全然納得はしていないですけど。最後の手術をした時は、試合はもうできないと思っていましたからね。親にこれ以上心配かけたくないという思いで受けたんですけど…でも、諦められなかったッスね。ちゃんと自分の脚で立って、動けるようになって、親と出かけられるとかそういう時によかったなあって思えました。

腫瘍と付着した神経も切除しなければならないため、下半身に障害を負うとされていた中でのここまでの回復は、医学的にも奇跡というとらえ方をしていいのでしょうか。

ハヤト 僕の場合は腰の神経をガッチリ切っちゃって、そこにお尻の下側…太腿とつながっている部分の細胞を持ってきてくっつける手術でした。たとえば小指の神経が切れたら人差し指の神経を移植して動かすようにする事例があるんですけど、それで神経がついて運動ができるかどうかは結果を見るまではわからなかったので、先生たちもビックリしていました。なので僕の手術のデータは、すべてこれから医者になる人たちの教材として生かすよう残されるそうなんです。僕の名前も、なんの仕事をしているかも全部提供して、こういう手術をして、こういう薬を飲んでっていう資料ですよね。

プロレスラー・フジタ“Jr”ハヤトの名が日本の医学に残ると。

ハヤト なんでそれがうまくいったかというのは、これは本当に先生方の力があってのことです。18時間ぐらいの手術で…まあ、僕は寝ているだけだから気づいたら終わっているんですけど、終わった時は映画やドラマのようなアレですよ、まったく動かないやという。その時点では絶望しかなかった。一日限定復帰(2019年12月13日、拳剛戦)した時にはそういうリスクのある手術をすると聞いていたんですけど、1回目の手術を受けた時に納豆でたとえられたんです。僕の体が桶だとすると納豆の粒の部分が腫瘍で、その粒を取ってもネバネバが残っていたらそこにまたできちゃうと。だから桶ごとごっそり取ることをやらないとずっとできちゃうかもしれないし、もしくはできないかもしれないから自分で決断してくださいと。だから拳剛との試合が終わった時には、正直なことを言うとこれが最後だなと思っていました。五分五分で動けるようになっても、今までやってきたようなことはできない、あるいはまったく動かないかもしれないって聞いていたから、最後の最後まで手術はやらないって言ったんです。

自身の力、医師の皆様の力、もしかすると運も含めものすごく小さな確率の中で揃うべきものが揃った結果になったんだと思います。

ハヤト 本格復帰って言ってもらっていますけど、まだ連戦の許可は降りていないんで、僕の名前が入っていない大会も出てくるし、カードが発表されても体調の波があるんで出られなくなっちゃったりすることもあると思われるところで、今悩んでいるという感じですね。本当は出たいですけど、2連戦でさえ許可が下りない。1試合終えて検査して、その結果を見て次はいついけるかというのを先生が決めなければGOが出ない。そこのわがままを聞いてくれた会社にも感謝ですし、検査を受けるんだったらOKと言ってくれた病院にも感謝ですよね。

今現在、痛みはあるんですか。

ハヤト 痛みは常にあるんです。つけたところがうまくついても、寝ているだけで痛いし座ってても痛いし、立っていても痛い。この痛さが100なくなることはないらしいんで。

……。

ハヤト それはけっこう早い段階から聞かされていたんで、今はけっこう慣れてきたというか。それでも、ずっと痛いです。ただね、はじめはその痛さも感じられなかったんです。痛いってわかるこの感覚が喜びじゃないですけどね、ハハハ。その痛さを忘れる時があるんですよ。サンドバッグを蹴っている時、対人でスパーリングをやっている時。その間だけは痛さを感じない。だったら復帰してもっとやりてえなあってなるじゃないですか。

痛みが走るのは、腫瘍があった箇所ですよね。

ハヤト そうです。

直接的にそこを攻められたら…。

ハヤト そうなんですよね…うん、でも大丈夫ッス!

改めてガンが発覚した4年前の思いをお聞かせください。

ハヤト 5年前、ヒザをケガした時(2017年4月23日)に、その手術を受けたらまた半年間は休まなきゃいけないってなるから、しない方向でなんとかならないですかって相談していたところ、脚より腰の方が痛くなって。それまでも定期的に腰はずっと痛かったんですよ。その時点で2年間ぐらい痛かったから試合前に痛み止めを3錠、終わってからまた3錠飲んでって繰り返していたんですけど、それがヒザをやってからは立てないぐらい腰が痛くなった。くしゃみをしたら体ごと崩れるような状態で、それを先生に話したら先に腰を診ようと言われてはじめはヘルニアと診断されたんです。それじゃこっちの手術をやってからヒザの手術をやろうとなって、3ヵ月後に腰の手術をやってそのまた3ヵ月後にヒザの手術を受けたんですけど、その時点で半年経ってんのに全然腰の痛みが引かない。いくらなんでも全然変わらないのはおかしいと思って、本当にヘルニアですか?って先生にずっと言い続けたんですけど、これほど続けて手術を受けたらそりゃ体も痛いよっていう感じで。

ということは、最初の時点ではガンと診断されていなかったんですね。

ハヤト でも、よくヘルニアの痛みに耐えて試合をする話とか聞いているじゃないですか。それが、こんなに痛いものなの!? さすがにそんなことはないだろうと。

いくらプロレスラーでも、この痛みがヘルニアだとするなら無理だと。

ハヤト 打撲の痛みとか、メスを入れたところの抜糸するまでの痛みとかは自分でもわかるから、なったことはないけれどこの痛みがヘルニアだとは思えなかったんです。それでもう一度調べてくださいって言って、それでも1年かかりました。感染症のこともあるし、もしヘルニアじゃなかったら部署も先生も変わっちゃうから、そういうことも含めて時間がかかるって言われ続けて…ようやく検査を受けられたあと、急に電話がかかってきました。「ご家族と一緒に来てください」と。その時点でヘルニアとは違うと感じたんで、一人でいきますと答えて向かったらいつも説明を受ける部屋とは違うところに通されて、レントゲン、CTの画像が用意されていて明らかに白く写っているのが見えるんです。これ、取ったはずだよなあって思っていたら、先生から「結論からいうと、ガンです」と言われて「ああ、そっかあ」と。

親父を見てこの業界に入って
いるんで……もう一回見せたい

そこは「ああ、そっかあ」となったんですか。

ハヤト 自分の思っていた通りヘルニアじゃなかっただろ?っていう方が先でしたね。あのまま自分でヘルニアってこういう痛みなんだって思っていたら、見つからないままだったし、今はないです。

自分の本能が自分を守りましたね。

ハヤト もちろん、なんではじめに見つけてくれなかったんだよ!っていう思いもあって、ムチャクチャ葛藤しながら説明を聞いていたんですけど、ガンだと実感したのは病院を出てからだったな。これを、親に言わなければならない…うーん……シンドかったですね、あの時が。

自分の命よりも、ご両親のことの方が。

ハヤト ヒザをケガする1年ぐらい前に親父が脳腫瘍で倒れて、それが元気になり始めた頃でした。医者から脳腫瘍、脊髄腫瘍は親族でいますか?と聞かれて、親父がそうだと言ったら遺伝性があるものと説明されて。そういうのも、お父さんに説明できるかと確認されて、できますとは言ったんだけど、一人になった時にこれは説明できないよなあって。病院で告知された時よりも、帰り道で号泣しました。

自分の命のことは…。

ハヤト いや、そこは全然考えなかった。山本KID(徳郁)さんもガンと闘っている時だったんで、いろいろ話を聞きたいとか、会社にどう説明するかとか、そして家族にどう説明するか。あとは「もう俺は試合ができないんだな」であって、死ぬのかっていうのはなかったんです。なぜかというと、はじめに血液のガンではないから症状が出にくいと聞かされて、ガリガリに痩せていくとか髪の毛が抜けていくとかは多少あったけどわかりにくいと。そこで、言葉はよくないけど血液ではない分よかったって思えたんです。でも結果、親に明かすまで4、5ヵ月かかりました。みちのくの仙台で初めて公表した(2018年11月24日)2日ぐらい前に。

我々とほぼ同じタイミングで知らされたと。

ハヤト なので正確には、親よりも先に新崎人生社長が知るという。そのタイミングも、新崎社長から「ヒザの調子はどう? そろそろ試合できるか」という感じで振ってきたので、これは言わなきゃなと思って説明して。「親は知っているのか?」「まだ言えていません」…仙台で言うことが決まったので、それまでには親にも言わなきゃと。

その5ヵ月間は気づいていなさそうでしたか。

ハヤト いなかったと思いますけど、痩せたねとか言われると気づいたかなと思っていました。痛さはずっとあったんで、それも出さないようにはしていましたけど…話した時は、会話というよりも2時間半ぐらい泣きじゃくっているのを大丈夫、大丈夫というしかなかった。

あの……死を覚悟したことは…。

ハヤト 何度もありました。血液のガンではないからと言われたところでゼロとは言われていないんで。体調が悪くなって動けなくなっていく中で、このまま死ぬかもなって思いました。でも、そのたびに思うのが、じゃあもう一回だけ試合をしたい、そうなるんだったら1試合でもいいから試合ができる体にしてくれと。一方で、死ぬかもという気持ちの反動でもう1試合させてよと思うのがシンドくなってきて、ピークに達した時は主治医の先生に「マジで殺してください」って言っていました。疲れてストレスになって感情が無理だから、もう治療やめてくれって。

痛みよりも気持ちのダメージで。

ハヤト いくら治療しても治らない時期が続いたんで、ここまでやっても無理ならもう無理だろうと。周りは大丈夫って励ましてくれるけど、何が大丈夫なの?って、考え方のすべてがマイナスになっていく。あれはシンドかったけど、親の前では大丈夫だっていうのを僕が勝手に装っていたので、それもキツすぎました。俺の方から殺してくれって頼んだって一筆書くから全部お願いしますって、人生初の土下座で頼みました。そこで「何言ってんだ!」って怒られて、泣きじゃくるという。恐怖と、その頃は痛さも慣れていなかったので寝られない。2時間ぐらい寝ると同じ態勢になって激痛が起こる。それは今も続いていて、どんなに寝ても疲れがとれない。

5年間で受けた手術の回数は?

ハヤト ヒザも入れると6回。病院の部屋が自分の家のような生活です。1週間家に戻って、また1週間入院とか。リハビリができるようになるまでは本当に何もやれることがない。それでも、家に戻ればグローブやレガースがあるから帰してって頼んで。嫌でも動く状態を作りたいから、家に戻してくれって言っていましたね。車イスで誰にも手伝ってもらわずに玄関を開けられるかとか、上半身は動かせるから車イスに乗って坂道までいって帰ってくるとか、そういう生活。楽しみといったら格闘技を見ること。ボクシング、キック、MMA、プロレスと小学校時代、nWoにハマってガッチリ見ていた頃以来ですよ、ここまで見たのは。

プレイヤーによっては見るとあせってしまうことから、見なくなるタイプもいますが。

ハヤト 僕も今までは見なかったんです。でも今回は戻れないと思ったんで、趣味が戻ってきたなという感じでした。新日本さん、ZERO1さん、拳王も見ていました。そこでは自分が出られないことの悔しさというよりも、俺だったらこういう試合にするんだけどなあって思いながら。ファンの頃と同じですよ、この人に噛みつけば面白いのになんでいかないかなとか、勝手な妄想ですよね。それでパワーもらっていました。RIZINを見ていても、ファンのパワーってエグいじゃないですか。俺、出ていないのに俺が声援をもらっているのか?ってなるぐらいのパワーをもらっていたので、やっぱり俺は見る側ではなくあっち側の人間だよな、やることによってこういうように思わせたいんだって。

一日限定復活の拳剛戦を終えたあと、二人で並んでバルコニーから宇宙大戦争を見ていた時の顔が、本当に楽しそうだったのが印象に残っています。

ハヤト それ、自分でも思いました。欠場する前は毎試合がもうちょっとできたとか、デビューしてから満足できたことが一度もなくてやっているのが嫌いな時期があったんです。それでもやりたい、だからやっていたみたいな時期がすごく長かった。それができなくなって、俺はこれをするために生まれて、これをやるためにまだ諦めずいつ来るかわからない復帰に向けてリハビリをやっているんだなと思うようになってからは…やっぱりこれしか無理ッすね。どう考えても無理です。

それでも、もう戻れないと思った時に何をやるかまでは考えたんですか。

ハヤト 好きな選手たち…プロレスラー、格闘家の体を治したいって思いました。格闘技がもっと小さな形でもいいからみんなにとっての身近になるような…どちらかというと野蛮にとらわれやすい時代において、そうじゃないんだ、少なくと俺は助けられたよっていう思いから、それがジムなのかどうかはわかないけれども、そういう道も考えました。

どんな形になったとしても“ここ”だったんですね。

ハヤト そうですね。僕の体調がよくなってきた頃、親父が再発して倒れて、今は歩けなくてトイレも自分でいけないぐらい弱っている。脳性麻痺の障がいを持っている両親二人は僕にとって健常者と変わらない普通の親であるけど、小さい頃から同級生よりも早く独立して親の面倒を見なければならない時期が来るとずっと言われ続けてきたので、覚悟はしていた。今年でプロレスラーになって18年、人生の半分を好き勝手やってきて親の面倒を普段、入ってくれている介護士さんたちに任せている状態だったし、体調がよくなったタイミングで親父が倒れて。僕は親父を見てこの業界に入っているんで(ドッグレッグスのプロレスラー・ゴッドファーザー)、あのう……(しぼり出すような声で)もう一回見せたいなって。遺伝のことがあるかもと説明して、親父が「ごめんな」と言っているところを見て自分でも一人になった時に考えて、弱っていく親父の姿を見て……俺が復帰することによって元気になるなんていうのは全然思っていないですけど、もしパワーになればまた親父が歩けるようになるかもしれないし、自分でトイレにいけるようになるかもしれないと思ったら、やってやろうみたいな。それが俺にできる親孝行じゃないけど…そうですね。

よく話してくれました。

ハヤト 障がいを持っている親だといじめられたこともあったし、そのたび両親に「こんな親でごめんね」とか「健常者の親のところがよかったよね」とか、俺がいじめられたことによって言わせてしまった。その次に聞く“ごめん”が、まさかこんな病気で…遺伝なんて、僕からしたら親父にも母親にもお父さんとお母さんがいて、どこからの遺伝なのかなんてそんなことを言っていたらキリがないよと気にもしていなかったのに、親から「ごめん」と言われるのはキツい。そんなことないよって言うために、リングに上がらなきゃいけない。

復帰を報告した時の様子は?

ハヤト はじめは大丈夫かっていう心配しかなかったですけど、やると決めたら「じゃあその日は応援団でいかなきゃな」って言っていたり、この日が復帰戦だって決まったらその日に向けて親父もリハビリを頑張れるってなっているんで。本当は車イスじゃなく歩いていきたいって言っていましたけど。

支援イベントを一度しかやら
なかったのは「俺は戻るから」

18年前のデビュー戦、リングサイドからご両親が見ていた時と同じようなシチュエーションの中、やることになります。ハヤト選手の、巨大すぎる絶望の中でそれでも前向きでいられる強さは、いったいどこから来るのか。

ハヤト なんだろう……好きなことをやっているからじゃないですか。僕は有名じゃないし、自分が何をやってもそれによって世の中が変わるわけではない。でも、こういうやつがいるっていうことを一人でも多くの人に知ってもらうことによって「俺も頑張ってみよう」ってなってくれれば、それでいいんですよ。そうやってしあわせな感情になってもらうことが俺たちの仕事なんだと思っているし、それを全うしているだけです。周りに助けてもらってきたから、周りにこうなってほしいって思うのが自然なんです。同級生や先輩のいじめよりも、親の世代からの方がけっこうやられていたんですよ、かわいそうだとか。そういう中で格闘技を始めてKIDさんに出逢って、そんなことはまったく関係ないよっていう接し方をしてくれて、そういうカッコいいなと思う人が格闘家で、あこがれたのがプロレスラーで、格闘技とプロレスを通じて出逢ったのが、そういう人たちではなかったからそれに対し恩返しをするっていうのは、デビューする前から思っていたことでした。だからね、自分の気持ちをいい方向に持っていける“これ”があってよかった。それがなかったら7月1日、僕はリングに上がっていない。

ファンの期待感の大きさを感じていると思われます。

ハヤト 一方では「ちゃんと治っているの?」という見方があって当然なんですけど、完全に(ガンを)倒したわけじゃないということはまた再発しちゃうのかと思われると、試合を見るのが怖いと思わせてしまう。それもあって、この5年間はほとんどSNSで発信してこなかった。そこは俺なりの考えがありましたね。プロレスラーは強いから心配しないで待っててねっていう。

支援イベントの開催も一度だけでした(2019年11月27日、ハヤトエール)。本来であれば選手もファンも、もっとフジタ“Jr”ハヤトを支援する場を求めていたはずですが、本人がそれをヨシとしなかったと聞いていました。

ハヤト これは完全に僕個人の考えとして聞いてほしいんですけど、支援大会は戻れないからやることで力になる場という受け取り方なんです。もちろん戻ってきてほしいし、仮に自分が出場したら戻ってきてもらうために全力で闘うでしょう。でもいざ、自分が戻る立場になると「俺は戻るから」っていう気持ちが強くなった。いや、メチャクチャありがたいんですよ。

今までさまざまなものを他者に与えてきた立場だからこそ、今度は与えられることを受け入れていいのではと思いました。ましてや現実的なことを言うなら支援を受けた方が金銭的にも助かるわけですから。でも、それを優先しなかった。

ハヤト うーん…なんていうんですかねえ、全員がもう戻れないと思っているんだろうなと思っていました。尊敬する先輩たちや仲間にいっぱい出てもらってやってくれたんですけど「なんで俺が戻ってこないと思っているの?」って思っちゃった。じっさいはそんなこと思っていないのはわかっているのに、自分の中で葛藤がすごすぎて、これをもう一回やってもらうなんて俺は持たないよって。あのあと、けっこう第2弾をやらせてくださいっていう話もいただいたんですけど、それをやったら自分が考えているタイミングでの復帰ができなくなるかもしれないからってお断りしてきました。そこは頑固なんですよね。ファンの人が僕を見て、あの時より痩せたとか、ケガする前より顔がこけたとか少しでも思わせちゃうと、心配させるだけの興行じゃんって思っちゃう。だったら、ある程度体が戻ってきてからメディアに出ればいいと思って発信してこなかったんです。

親御さんに対してもファンや仲間たちに関しても心配かけたくないという姿勢がすべての根っこになっているんですね。

ハヤト ファンに心配をかけるような仕事じゃないので。でも、それは心配だけじゃなく「帰ってきて」という願いなんだって気づくまで時間がかかりました。いろんな方に「復帰は無理だとしても生きているだけでいいから帰ってきて」と言ってくださって、それはすごくありがたい言葉であり、また辛い言葉でもあって。これをやっていない自分は死んでいるのも同じだっていう思いが強すぎて。それでもちゃんと待っててくれたり、生きててくれればいいと思ってくださったりする方が、俺が戻ることで楽しみが増えたのであれば、戻ってきてよかったと思うし。

東北ジュニアヘビー級王座に挑戦するにあたり、新人として入ってきた頃から見ているMUSASHI選手がチャンピオンです。

ハヤト やっとですよ、みちのくの後輩があそこまで盛り上げてくれるまでになったのは。ザ・グレート・サスケ、新崎人生の世代からみちのくが僕らの世代に受け継がれたあと、なかなかその下の世代が入ってこられなくて、まあMUSASHIのことをボッコボコにしていましたからね。あいつは「ハヤトを倒さなければチャンピオンとして認めてもらえない」って言っていましたけど、それが5年も間が空いても変わらぬ俺との関係だということです。上から目線って言われるけど、じっさい俺の方が上だし。

ベルトを獲れば、その後の展開が広がってきます。

ハヤト 今の時点で7月3日までの僕のスケジュールは決まっていて、試合が終わったらそのまま病院直行で、検査結果を聞くまでは確定している。それを聞いた上で月に何試合やっていくのかも決まっていくと思うので。腰の神経をくっつけている中、受け身を取ったことで亀裂が入っていないかとか。それが切れちゃうとまったく動かなくなっちゃうので、どれぐらいの強度になっているかを調べたり。痛み止めがどれほど持つのかもすでにチェックはしていて、昨日の18時半に打った分が何時に切れましたとか報告しながら練習を続けているんです。あとは体のあらゆる数値、血液の流れと全部調べながら…こればかりは試合をやってみなければ、体がどういう数値になるかわからないわけで。これぐらいの数値だったら合格だって言われるんですけど、動いてそうなるかどうかなので事前に提示されても意味はない。なので7月1日に無事試合を終えて、また試合ができるってなるのが今の目標です。

プロレスの技を受けた時に、体が数値的にどんな反応を示すかですね。目標といえば、先日の「速報!バトル☆メン」で髙橋ヒロム選手に一視聴者としてメッセージを送っていました。

ハヤト 休んでいる間にヒロム君の試合を見ていて「すっげえ華があるじゃん! カッケー」ってなって、自分がプロレスラーじゃなかったら絶対ファンになっていましたし、プロを目指していたらあの人を倒したいってなっていたと思うんです。以前にイギリスでお会いした時に軽くしか話せなかったですけど、好きな服の傾向も似ていて勝手に拳剛みたいな感じで頭に残っていて。僕の復帰宣言の映像が流れる時にたまたまゲストがヒロム君だったんで、これは何かリアクションしたらワッ!てなるかもと。

家からサムライTV HPの応募フォームを通じて。

ハヤト 完全にファンの気持ちで送ったんですけどね。自分があと何試合できるかもわかない中で、悔いなくやりたいやつとやろう、それか見ている人にとってのパワーになればこの仕事をやっていてよかったと思えるんで、その思いだけで動きましたね。近いうちに…宇宙大戦争だって、僕はみちのくに18年いる人間なのに一度もやっていないんですよ。それはもう、みちのく所属でないのと同じじゃないですか。

そういうものですか。

ハヤト 僕が東北ジュニアチャンピオンだった頃って、宇宙大戦争がセミで僕がメインだったんです。こんな地獄はないですよ。だから、短くていいから宇宙大戦争のあとに休憩を入れてくれって言っていましたね、お客さんの中にもリセットが必要だったので。それぐらいのものですから、自分もやりたいですよ。俺が復帰する理由は、そこにもあるのかもしれない。1895日分ですか…ここまでが本当に長かったし辛かった分、今は楽しみしかないです。