スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txtの場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2024年5月号では、第118回ゲストとして大日本プロレスのBJW認定世界ストロングヘビー級王者・青木優也選手が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!
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※鈴木健.txt氏 twitter:@yaroutxt facebook:facebook.com/Kensuzukitxt
普通に生活していたら
絶対に会えない人と会えて、
いけないところにいけるんで
メチャクチャ楽しませて
もらっています
青木優也(大日本プロレス)
いたずらと、ピリピリ…
橋本大地の緩急が怖い
昨年の5月4日、横浜武道館で岡林裕二選手からBJW認定世界ストロングヘビー級王座を奪取し、次回防衛戦で丸1年になります。ベルトを戴冠する前に描いていたことと実際にチャンピオンを務めたこの1年を比較して、いかがですか。
青木 獲る前はベルトを巻いたらもう団体の顔だっていう、けっこう浅はか感じでした。でも実際はチャンピオンとしての責任から来るプレッシャーが大きかったり、発信していく部分で苦労するところもあったり、今でも足りていないところがあると思っています。そこはまだ向き合っていかなければならないところですよね。
なってみるまで気づかなかったところですか。
青木 そうですね。よく言われることですけど、ストロングヘビー級のベルトを巻いたこれまでのチャンピオンたちが背負ってきた重さをつくづく感じています。発信に関しても、大日本を見に来てくれる人に関しては楽しんで帰ってもらうのがモットーなので、そこは達成感を持てていますけど、それ以外の大日本プロレスを知らない、プロレスを知らない人も引き込む上ではまだまだ足りていない。SNSはチャンピオンになる前からやってはいますけど、どちらかというと苦手で。
苦手というのは?
青木 こんなちっちゃいもの(スマホ)なのに、そこからバーッと世界中に広がっている。僕からするとものすごい量の情報が錯乱しすぎて何を信じたらいいかってなっちゃうんです。電源を切ったら気が楽になるんで、タイトルマッチ前のようにいろいろ集中して考えたい時は、もうスマホを置いて外を歩くだけというようなことをやっているんですけど。
現代社会ならではの悩みですね。エゴサして手当たり次第リポストや「いいね」をするアブドーラ・小林選手ぐらいカジュアルにやった方がいいのでは?
青木 小林さんを見ていると本当にうまいなあと思いますね。
うまいんですかね、あれ。
青木 SNSとの付き合い方、発信の仕方が周りを巻き込む力になっていますから。僕はそういうのがないなって思います。
チャンピオンはそういうところまでやらなければならないと。
青木 そこを考えていなかった。ただ、けっして苦悩だけじゃなく、会場で「頑張ってください!」と言ってくれる人、商店街プロレスでもチビッ子たちからも応援されるようになって、そういう時はチャンピオンとして嬉しいと思います。
ベルトを巻いて周囲のリアクションも変わったんですね。
青木 北海道や他の地方へプロモーションにいく時、ベルトを持っていくと反応が全然違います。「チャンピオンなんです」「なんのチャンピオンなんですか?」「プロレスのチャンピオンです」という流れでプロレスに興味を持ってくれやすい。そういう場ではチャンピオンとして立ち回れているとは思います。
リング上に関してですが、1年間で8度の防衛を重ねてきました。
青木 そこはメチャクチャ自信につながっていますね。大日本プロレスにおける“ストロングとは”という試合ができているとは思います。
外国人のレイトン・ハザード選手と後輩の吉田和正選手以外は全員先輩を倒したことになるので、ベルトを抜きにしても快進撃となります。
青木 その中で、関本(大介)さんの連続防衛最多記録(10度)に近づけているなという実感が毎回あります。
そこは意識して狙うと。岡林選手から奪取したことも意義がありましたが、4度目の防衛戦で関本選手を相手に防衛できたのもそれに匹敵する大きな勝利でした。
青木 確かに大きな勝利でしたけど、象徴という意味ではまだ足元にも及んでいないと思うんです。たとえば今度、日本プロレスリング連盟の大会があるじゃないですか(5月6日、日本武道館)。それには大日本プロレスも加盟しているんですけど、選出されるのは関本さん。つまり、大日本とイコールで結ばれるのは今も関本大介なんですよ。その認識を変えない限りは大日本プロレス=青木優也とはならない。そして、そうならないと関本さんを超えたことにはならない。
やはり自身が団体とイコールで結ばれることが目標なんですね。
青木 顔ですよね。自分自身も世間も、そうはとらえていない。1年かけて防衛を重ねてもそこは実現できていない。僕にとっての、ベルトを持ち続けなければならない理由のひとつです。
そうした中、年間最大のビッグマッチの相手に橋本大地選手を指名しました。
青木 まず、橋本大地選手とは何年か前にシングルマッチでやって回し蹴りが顔にヒットしてそのまま病院送りになったり、タッグマッチで猛攻を食らってほぼ心が折れかけたり、そういうことがあって自分でも苦手意識を持っている存在で。ただ、これまでの防衛戦を積み重ねていく中で強い人たちを倒してきて自信に変わって、これは今だなと。機は熟したじゃないですけど、まさに「時は来た!」ですよ。
掟破りの逆「時は来た」。調べた限りではシングルマッチは青木選手が8戦全敗と一度も勝っていないんですね。
青木 大地さんって普段は悪ガキ感があるというか、自分もイタズラをいっぱいされていて…。
たとえばどんなことを?
青木 試合が近づいてきて着替えようと思ったら、シューズが片方ないんですよ。それで探したら会場のトイレに飾られている花瓶と一緒に添えられていたり、コスチュームを隠されたり。
……それ、完全に血筋ですね。
青木 血筋ですか。それがリング上になると、もうピリピリした感じになるじゃないですか。そういう大地さんのなんと言いますか…緩急が怖いんですよ。
ああ、スイッチがどこにあるか読めない人って怖いですよね。
青木 タイトルマッチを前にこんなことを言っちゃいけないんでしょうけど、そういう意味でも怖い存在。でも、苦手意識を克服するための自信をこの1年間で培うことができたんで。あとは横浜出身同士が横浜のビッグマッチでタイトルマッチをやることに意義を感じています。
タッグマッチに関しては昨年、新潟プロレスの大会で1度直接勝利をあげています(4月23日、村上市民ふれあいセンターでピンフォール勝ち)。また参考記録としては2019年2月3日の上野恩賜公園におけるアルコールドランカータッグマッチで3カウントを奪っています。飲んだら青木選手の方が強いと。
青木 いやいや、大地さんも相当強いッスよ。まあ、ルールは違えどプロレスの試合で勝ったわけですから自信になると。大地さん、酒乱ですからねえ…。
酒乱に勝ったのであれば、より大きいじゃないですか。
青木 でも5年前のことですし、逆に前回のシングルマッチ(2022年1月5日、新木場1stRING。一騎当千公式戦で大地がシャイニング・ウィザードから勝利)からも3年経っていますから、すべての過去は参考にならないと思います。
当時はヘビーvsジュニアでしたから、別モノでしょう。
青木 今のチャンピオン・青木優也と、今の橋本大地というところで勝負は決まるんで。
新人の頃の先輩・大地選手とのエピソードって何かございますか。
青木 ……(長考後)本当に、いたずらされたことしか思い出せないですね。飲み会とかでも、大地さんは「飲め飲め!」という感じの人だし。でもそれが嫌なわけじゃないんですよ。楽しく飲めるし、いたずらもやめてください!という感じのものではないんで。僕だけじゃなく全方位仕掛けるんですけど、たぶんリアクションを見るのが楽しいんだと思います。それ以外となると…うーん……。
その出てこない姿が答えだと思います。大地選手を指名した3・20後楽園ホールでは「お断りします」と返答されたばかりか「おまえが逆指名したなら、そこまで価値を上げてきたのか?」と厳しい言葉も浴びせられました。
青木 あの時は正直、お客さんの反応を見たら大地さんの言葉に盛り上がって賛同する声が多いって思いました。悔しいけど、自分は大地さんに響いていないチャンピオンなんだなって。だけど、そこでじゃあいいですとはならないし、こっちも覚悟を持って指名したわけですから。
普通は指名を受けたら「やってやる!」と回答して盛り上がるところが、ああいうリアクションをされて意表を突かれたと思われます。
青木 僕は、大地さんならそれもあるなっていうのが頭の中にありました。「マジかよ!?」ではなく「ああ、橋本大地らしいな」と。そこから、どうやると言わせるかは強引に持っていくしかなかった。そうしたら「チャンピオンでいたいなら俺とやらない方がいいと思うよ」ということを言ってくるわけです。
『北斗の拳』の「死にたくなければやめろ」みたいな。
青木 あれを聞いた瞬間は、ちょっと鳥肌が立って武者震いしました。指名されて梯子を外したと思ったら、あんなにピリついたことをサラッと言う。わかんねえな、橋本大地ですよ。つかめないからこその恐怖心。
読めない相手は怖いです。これはけっこうな命題ですよね。今までのどの防衛戦ともまったく毛色が違う。
青木 闘う前から勝負を仕掛けてきている選手は初めてですね。今回はある意味、自分も挑戦者の気持ちです。これを越えなければ関本さんの記録に届かないですから、避けては通れません。
デビュー前に一度だけやめようと
練習生なのに練習できない憤り
去年はチャレンジャーでしたが、今回は年間最大のビッグマッチで自分自身が王者としてメインを務める立場です。
青木 光栄なことですけどその分、お客さんが求めているものや期待値が上がっていると思うので、それを超えなきゃいけない。対戦相手以外にもそういう部分で闘って勝たなければならないのがチャンピオンですから。あとはストロングヘビーの宿命としてデスマッチヘビーとの闘いもある。今でも大日本=デスマッチという認識がされている中で、ストロングBJもすげえんだぞ!というのを見せることで切磋琢磨し合って団体として上にいくと思うんで。対デスマッチというのは、これまでもずっと意識してきたことですね。
同じ時期に石川勇希選手がデスマッチヘビー級王者になったことで、大日本プロレスの風景も変わりつつあり、時代の変化が具現化されています。
青木 プロレスもどんどんアップデートされていかなければという点で、若い選手が引っ張っていくのはお客さんが見ても大日本プロレスがどんどん変わってきている実感を得られるだろうし、そういった意味では(石川は)戦友のような感覚ですね。プロレス界全体の流れでいったら、DDTの上野勇希選手や全日本プロレスの安齋勇馬選手のような若い選手たちがチャンピオンを務める団体って活気がすごくある印象を僕自身も受けているんでそういう人たち、そういう団体に負けないようにというのは常に思います。
他団体の同世代の存在が引っかかると。
青木 ハッキリ言って、メチャクチャ気になるし、メチャクチャ嫉妬します。そういう人たちがチャンピオンとしてタイトルマッチをおこなう大会の客入りや熱気がどれぐらいなのかっていうのは本当に気になるし、それを見て活力をもらうし。特にこの数年で僕らの世代による新しい風景が生み出されていることを実感します。その上で自分も負けてなるか!に尽きるんですけど。
いい相乗効果ですね。過去にさかのぼらせていただくと青木選手は大日本の道場がある横浜市都筑区出身じゃないですか。生まれた時点で自分の住んでいる街にプロレスの道場があったことになります。
青木 同じ街と言っても駅で5つ分ぐらい離れていまして。自分が住んでいたところの近くの公園に商店街プロレスが来るまではプロレスとはまったく接点がなかったんです。
それは何歳の時ですか。
青木 中学生だったかな。ただ、それも大日本プロレスというものが頭の片隅に入ってきたぐらいでしたね。それまでプロレスラーは、アントニオ猪木さんや長州力さんのようにテレビに出る人というぐらいの知識。だから自分の住んでいる街にプロレスの道場があるというのは、それこそ関本さん、岡林さんと出逢うまではなかったんです。
そうだったんですか。てっきり小さい頃から「子どもは近づいちゃいけません!」とか言われていたような感じだと思っていました。
青木 あのあたりは、ららぽーとにいく用がないといかないし、あまり近所っていう感覚でもなかったです。
関本選手、岡林選手と逢ったのは白鵬関のパーティーの場でしたよね。
青木 高校の時、相撲部だったんですけどその関係で白鵬さんの講演会にいくことがあって、間に入ってくれた人がちょっと話してみなよみたいな感じで会わせてくれたんです。
その時点でプロレスラーになりたいと思って会った。
青木 いえ、その時点では思っていなかったです。保育士になりたいと思っていたのが、岡林さんに「キミはいい目をしているからプロレスラーになれるよ!」って言われてなろうと思ったのが最初です。
ええっ、そうだったんですか? 1年前に岡林選手をインタビューした時に「プロレスラーになりたい若者がいるから会ってくれと言われて会った」と言っていたので、なりたくて会ったと思っていました。
青木 岡林さんはそう受け取っていたんですね。同級生のお父さんの知り合いが白鵬関の講演会を横浜でよく開催している方で「白鵬に会えるから来ない?」って同級生に言われていったんです。その講演会を開いている方がおそらく関本さん、岡林さんとも知り合いで呼んでいたのだと思います。
ということは、もしもその同級生に誘われていなかったら関本選手、岡林選手に会うことはなく、プロレスラーになろうとも思わなかったでしょうね。
青木 はい、保育士になっていました。初めて逢ったプロレスラーですから、それはもう衝撃的で。白鵬さんがいたにもかかわらず、プロレスラーに(心を)持っていかれました。
その時点でプロレスを知らないわけですから、プロレスラー・関本大介&岡林裕二の価値は知らないわけですよね。
青木 それでもインパクトがあって。確かワイシャツを着ていたんですけど、腕のところがパツンパツンで「前脚が生えている!」って思ったんです。それを目の前で見た衝撃がすごくて、直感で「自分もプロレスラーになる!」って思ったんでしょうね。もともと自分は目立ちたがり屋気質というか、みんなに見てもらいたいという面があったのと、よくわからないからこそ何かがあるんじゃないかと思うタイプで。その時点でお二人から名刺をいただいて、入門テストがいつあるからということも聞いて。
その場で動いたんですね。
青木 鴨居に道場があることを知ったのはその時です。
入門テストを受けて合格したら道場の合宿所へ住むわけですよね。青木選手は大日本に入門した人間の中で、言うなれば一番逃げ出そうと思えばいつでも逃げられる条件にあったわけじゃないですか。田舎から出てきたら距離的にも帰れないから頑張るとなれますけど、それこそ歩いて戻れるところに家がある分、逆によく続けられたなと思うんです。
青木 そこはもうプロレスラーになりたいっていう気持ちが一番にあったんで、それ以外のことは何も考えていなかったです。地元の友達も応援してくれたし、親もやりたいことを優先してやりなさいという感じで送り出してくれたんで、自分がプロレスラーになると決めた中で障害は一切なかった。そういった意味でもやめようと思ったことはまったく…あっ、1回だけありました。
なんでしょう。
青木 まだデビュー前に上野公園で1週間やるというのがあったんですけど、一日で3部やるので全然練習ができなかったんです。合間合間もゴミの取り替えとかいろいろな雑用があって。それはもちろんやるべきことなんですけど、リング上を見たら女子の選手たちを、大日本の選手が指導しているんです。
アイスリボンの選手ですかね。一日で上野をシェアしてやっていましたから。
青木 もちろんそれ自体も悪いことではないのはわかるんですけど、その時に「なんで俺たち練習生は練習を見てくれないんだ? こんなゴミを片づけるためにプロレスラーになろうと思ったんじゃねえよ! こんなだったら、もうやめる」って、一瞬だけ思ったんです。
練習や雑用が厳しくてではなく、練習生なのに練習できないことへの憤りで。
青木 そうでした。練習生なのに練習できないっておかしくね?みたいな。でも、それもグッとこらえてなんとか乗り越えました。
だいたい練習についていけなくてやめるものですが。
青木 厳しいのは厳しいですけど、嫌だという気持ちはなかったです。筋肉痛になってもやらなきゃいけないんですけど、それがプロレスラーに近づいている実感になって、そう思ったら続けられました。
相撲部で基礎体力を養ったのも役に立ちましたね。
青木 もともと体を動かすのが好きでしたから、まったく練習に関しては苦じゃなかったです。
新人時代、一緒に雑用をやっていたのは誰になるんですか。
青木 今、レフェリー兼任でやっている森廣(祐基)と、やめて別の団体にいる清水来人 が同期で、3人でやっていました。すぐ上の先輩は(オルカ)宇藤さん、菊田(一美)さん、野村(卓矢)さんで、道場での身の回りことは野村さんに教えていただきました。練習に関しては関本さん、岡林さんと(橋本)和樹さん。
自分の感情を引き出してくれた
選手が間違いなく大谷さんだった
初対面で衝撃を受けた関本選手、岡林選手の指導を実際に受けるわけですよね。「いい 目をしているから来いよ!」と笑顔で言ってくれた人が豹変すると。
青木 いや、練習よりも前に入門テストからでした。岡林さんが試験官だったんですけど、 もう鬼でしたね。
いやいや、テストの時点ではまだ一般人ですよ。
青木 自分ともう1人、受ける方がいてテストの前に話したら日体大でレスリングをやっているって言うんですよ。すげー、エリートじゃん! こっちは弱小高校の相撲部、どうすんだよ!?って思っていたら、始まるとあまりその方はメニューができていなかったんです。そうしたら岡林さんが「やれや、オラァ!!(怒)」って。
いやいやいやいや、まだ一般人ですから!
青木 それを見ていて、俺は負けていられないってなれて。早々にその人がリタイヤしちゃったことで火がついて何がなんでも勝ってやろうと思って。本当にスクワットも腕立て伏せもギリギリだったんですけど、岡林さんの罵声を浴びながら食らいついていった。何人もいたら「遅いからもういいよ」と言われていたかもしれないですけど、一人だったんで…でも、絶対に最後まで諦めはしなかったと思います。
入門テストの時点で燃える男だったんですね。岡林さん、初めて会った時と違うじゃん!となりますよね。
青木 怖いとは思いましたけど、プロレスラーはこういうものかって、ちょっと楽しかったのもあったかな。不通の生活をしていたら絶対に会えない人だし、経験できない状況なんで、これからこんな世界に入るのかーみたいな楽しさ。
ポジティブですねえ。
青木 技術や受け身ももちろん重要ですけど、岡林さんや関本さんからあれほどしごかれたことで、気持ちの部分で強くなれたし、それがあるから今があるので、鬼になってくれたことに感謝しています。
練習生の頃の楽しみって何かあったんですか。
青木 練習と雑用に追われる日々の中で、ららぽーとにいくのが唯一の楽しみでした。練習生は基本、外出は買い物とチケット販売、物販だけですし、合宿所のテレビがサムライTVだけで地上波は映らないんです。
CS放送だけ映って地上波が映らないテレビって、日本にあるんですか。
青木 どうなんでしょう、映さないようにしているのかなんなのかわからないんですけど…だからテレビを見ることもないんです。その環境で育つと、別に地上波を見たいと思わなくなるので。そういう環境の中でららぽーとにいくことだけでした。
ららぽーとにいってお買い物とかするんですか。
青木 いや、買い物はしないんですよ。ただただウィンドーショッピングするのと、やはり若い男なので女性に飢えているわけですね。綺麗な人たちを横目で見て、かわいいなあとか。ヨーカードーが入っているので、そこへいくのを口実にしてららぽーと内を散策していました。
ららぽーと横浜が開業したのは2007年ですから、大日本旗揚げから12年間はなかったんですよ。いや、ららぽーとができてよかったですね。
青木 デビューまで9ヵ月かかったんですけど、今思い返しても耐え抜いたという感覚はないんですよね。汚いことは汚いですけど住めば都なので。
そう思えるのが今まで出てきた話の中で一番すごいです。
青木 ちょっと前まで練習生がいたんですけど、ネズミが出るからやめるって言われて。それを聞いて、ホームセンターでネズミ対策グッズをいっぱい買ったんですけど、その日の夜に置き手紙を残して飛んじゃいました。
そういう環境もすごいですが、デビュー戦が極寒(1月の上野恩賜公園)というのも…おそらく日本のプロレス史上もっとも寒い中でのデビュー戦だったと思われます。
青木 デビュー戦はそれ以前に頭真っ白でした。プロレスラーを目指して頑張れていたのに、なぜかデビューが決まったら緊張しまくって上野に向かう車内でも「着かないでくれー…」と思っていました。それで気づいたら岡林さんにボコボコにされて終わったという。
デビュー戦でアルゼンチン・バックブリーカーをやられる人間って、あまり聞いたことがないです。
青木 言われてみれば。でも試合が終わって岡林さんから「今日からおまえはライバルや」ということを言われて「ああ、俺はプロレスラーになったんだ」って思ったのを憶えています。
それを思うと、去年の横浜武道館のタイトルマッチは大河ドラマですよね。
青木 本当ですよね。プロレスってドラマだって思います。自分のプロレス人生において絶対に欠かせない人に勝って巻いたんですから、もっともっと頑張っていかないとなっていう気持ちになります。
休業することを聞いた時はどう思われましたか。
青木 複雑でしたね。プロレスラー・岡林裕二としてはもちろん続けてほしい。大日本プロレスでまだまだ一緒に闘っていきたいという気持ちがありました。でもやっぱり一人の人間として見た時に家族もいて、お子さんもいてということを考えて。最終的には岡林さんの考えを尊重し受け入れて、その上で大日本プロレスのリングは自分が盛り上げて岡林さんにまたプロレスをやりたいって言わせます。
今、トラックに夢中なんですよね、岡林さん。
青木 夢中です。でも最近、ちょっとSNSの頻度が増えているんですよ。これはレスラー特有の承認欲求が抑えられなくなって、今の生活にちょっと飽きてきているのではと。しびれを切らして、いきなり会場に来るのを密かに期待しています。それも、自分がベルトを持ち続ける理由のひとつですね。
岡林選手以外でそういう存在になりそうな人はいるものですか。
青木 そういった意味では野村さんだと思います。(3・20)後楽園でやりましたけど、狂気性と強さ…本当に、強さを象徴する人だなと改めて思いました。自分の直の先輩で、練習生の頃からいろいろお世話になったんで、野村さんがそういう意味合いの選手なんじゃないかと思います。
岡林選手とともにプロレスをやる上で大きな影響を受けているのは大谷晋二郎選手と思われます。大谷選手も、過去の姿を知らなかったわけですから、プロレスラーになってから大谷晋二郎を理解したわけですよね。
青木 デビューして1年経たないぐらいの時に、ZERO1さんに呼んでいただいて(2017年6月22日、後楽園ホール。鈴木秀樹&青木vs大谷&関本)、そこで初めて闘って熱いレスラーというか自分自身、気持ちがメチャクチャ昂ったんですよ。それまでも先輩からボコボコにされていたんですけど、それとは違う。なんて言うんだろう…自分の中の感情を引き出してくれた選手が間違いなく大谷さんだった。そこから大谷さんについて調べて、ヤングライオン時代やTAJIRIさんと闘った試合の映像を見てすごい選手だなとなって。こんな選手になりたいと思ってから大谷さんの技をマネするようになっていきました。スワンダイブ式ミサイルキックも、本当にそこからでしたよね。
模倣から始まって磨きをかけ、自分のモノにしていくことで技は受け継がれていきます。普通はプロレスラーになる前か、あるいは付き人など近しいところから影響を受けるものですが、プレイヤーになってからこれほどの絶大なる影響を受けたと。
青木 もともと大谷さんに関する知識がなかったからこそ、スポンジみたいにいろんなことを吸収したんだと思います。自分はレジェンドレスラーの方の価値が見ていなかったから本当にわからなくて。若手の頃、KAIENTAI(DOJO)さんと合同興行的なものがあって、TAKAみちのくさんが目の前を通ったんですけど知らなかったから、なんか前髪の長い人がいるなーぐらいにしか思わなかったんです。そうしたら練習生みんなで「TAKAさんに挨拶しにいくぞ!」となって「誰だよ、TAKAみちのくって?」と思って。あとあとすごい方だと知って、無礼を働いてしまったと思いました。TAKAさん、失礼しました。
もしかすると、グレート小鹿さんも知らずに大日本へ入ったんですか。
青木 知りませんでした。なので最初はただのデッカいおじさんとしか…会長も相撲上がりで、僕が相撲をやっていたのを知って「おまえ、ちょっとリングに上がれ。相撲取るぞ」って。
そこはレスリングのスパーリングではなく相撲なんだ。
青木 ガッと組んで、力強かったんですけどやっぱり自分の方が体力あるんで投げ飛ばしたら「おっしゃあ、もう一丁!」って7回やって、全部勝ちました。でも、その時で70歳後半でしたから、7回もやること自体すごいわけですよ。
無類の負けず嫌いですし。
青木 二十代と七十代の力の差なんて圧倒的じゃないですか。それでもこんなに負けず嫌いで、パワフルな人がウチの会長なんだと思ったら、嬉しくなりましたね。
相撲は正攻法でやるんですね。小鹿さんはプロレスだと老かいで小賢しい闘いをもっとも得意としているじゃないですか。塩をぶちまけたりとかされなかったですか。
青木 ああ、ちゃんと正攻法でした。がっぷりと組んでやっていました。そういう人たちが周りにいるのが、自分としては面白いんです。さっきも言いましたけど、普通に生活していたら絶対に会えない人と会えて、いけないところにいけるんでメチャクチャ楽しませてもらっています。
保育士ではなく、プロレスラーになった方がよかったですかね。
青木 保育士にはならなかったですけど、子どもが好きというのも今、生きていると思います。商店街プロレスとかで初めて見る子どもやお婆ちゃん、お爺ちゃんがいっぱいいる中で、リングに子どもを上げてプロレス教室をやる時にも生かされている。
先日、都筑区の中学校で講演されたんですよね。
青木 はい、職業講和をさせていただきました。学童保育や小学校にもいっているんですけど、自分の精神年齢が小学校3、4年生ぐらいなのでちょうどいいと思うんです。
同じ目線の高さでいられる。そういう教えを授ける時に心がけていることはありますか。
青木 よく「夢を持て!」と言うじゃないですか。僕は無理やり夢を持たせようとするんじゃなく、まずはやりたいことを見つける。そのためにいろんなことをやってみるのがいいんじゃないかと言うようにしています。自分の夢が何かなんて、小さい子にはわからないでしょう、判断材料がないから。ちっちゃいうちは習いごと…習字や野球、サッカーでもいいですし、本を読んだりいろいろ経験したりして、その中からこれがいいなって思うものができたらどんどん突き詰めていけばいいんじゃないかって思うんです。
「将来プロレスラーになるんだ!」と言ってくる子はいますか。
青木 これが、いっぱいいるんですよ。
小さい頃の原体験は人生において影響力大ですから、青木優也と出逢ってプロレスラーになったという人と十数年後に出逢うかもしれない。そうなったら、青木選手が大谷選手のような存在になるわけですよ。
青木 もしかすると、自分もそれを目指しているのかもしれないです。子どもたちと真摯に向き合うのって、大谷さんもそうじゃないですか。いじめ撲滅を進めてきましたし、小学生相手にもあんなにも熱く語る。素晴らしいと思います。永尾(颯樹)選手のように、その姿を見てプロレスラーになろうと思った人間もいる。自分もそういう人を生み出せる存在になりたいですね。
永尾選手は大谷選手の試合を見たことがなく、講演会で話を聞いてプロレスラーになろうと思ったんですよね。
青木 だから、こういう講演会のような機会をいただけるのって本当に大切だと思っています。そして、チャンピオンだからそういう役割が回ってくる。大谷さんのような存在になるためにも、ベルトは持ち続けなければならないんです。